以西村郷土誌

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以西村尋常高等小学校編

 我々のよって立つ郷土以西こそ、それは他町村に比してまことに恵まれたる自然美と輝かしい伝統をもつものである。
 春風秋雨絶えず装いを新たにし、巍然として南北にそびゆる船上山、青巒と美田の間を縫って奔る清流勝田川、一つは建武中興に依っていよいよその彩りを増し、一つは全村産業発達の源泉をなす、幾百千年の昔から如何に多くの人の影を映して来たであろうか。
 我々の祖先はこの山の麓、この川の辺りに田畑を耕し、牛を飼い、森林を養って我郷土を育んだのである。
 今日の穣々たる美田も、鬱蒼たる山林も、我々父祖苦心の賜であり、伝わる口碑伝説も遺されたる社寺旧跡も皆郷土先輩の輝かしい活動を物語るものではあるまいか。
 我々は郷土の由来を知り、発達の跡をかんがえ、真にこれを理解する時、偉大なる郷土愛と無限の懐かしみの油然として湧くを禁じえない。そしてこれはまた敬神崇祖と尊皇愛国の精神へ推進するのである。
 しかして我々は悠久なる往時を偲ぶと共に、さらに郷土将来の発展を懷う時これが対策も我々の行くべき道もそこに自ら打開せらるるを信ずるものである。
 今日我々以西校の同人によって編纂したる本郷土誌は未だ不備の点あるを免れずと聊かこの主旨を達成すれば幸いである。

   昭和十二年十二月二十五日
                                            以西小学校長 松岡貞信






   以西村郷土史 目次

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第一章  沿  革
 第一節 以西村の沿革
        荒木郷、以西郷、明治以後

 第二節 各部落沿革
        竹ノ内、金屋、宮木、大熊、國實、山川、大父、
        大父木地、山川木地、平田ヶ平、岸ノ下

第二章  位置、区割
        位置、区割

第三章  広狭、面積
        面積、広狭

第四章  地 勢
        山谷、平野、川流

第五章  気 候
        気象、風水災

第六章  自然生物
 第一節 動物篇
        獣類、鳥類、蛇類、蛙類、魚類、斧足類、昆虫類
 第二節 植物篇
        高山植物、用材、薪炭材、食用、そう菌類、校庭の庭木

第七章  産 業
 第一節 総 説
 第二節 農 業
        農業発達及び自小作、米産麦産額、その他の農産
 第三節 牧 畜
        牛、その他
 第四節 林 業
        木材、木炭、その他
 第五節 養 蚕
 第六節 工 業
        木地工芸品、製材、その他、発動機、水車
 第七節 産業団体
        産業組合、村農会、実行組合

第八章 住 民
        人口調査、部落別人口戸数、年齢別人口、職業別人口
        出稼人調、以西村出生死亡及び婚姻離婚数表

第九章 交通通信
        交通の沿革、現代における交通、橋梁、交通量、交通機関、通信

第十章 名所旧跡
 第一節 船上山
        船上山概要元弘史と船上山名勝略記
 第二節 旧 跡
        太千寺跡、高木城跡、山川城跡と大門、細木原城跡、寺の條、天皇水、池田家
        船上山史跡保存会

第十一章 神社仏閣
 第一節 神 社
        大森、大熊、國實、柴尾、船上、大父、木地、足王、山の神、荒神
 第二節 仏 閣
        清元院、智積寺
 第三節 宗 教

第十二章 堂庵、故事伝説
 第一節 堂 庵
        大父、國實、大熊、竹内
 第二節 故事伝説
        以西村小字名、発掘物について、伝説

第十三章  風俗習慣
 第一節 年中行事
        元旦、二日、三日、六日、七日、九日、十四日、二十日、二月一日
        娯楽、心掛け、木地部風習、二月二日、四日、三月三日、等
 第二節 一生から見た行事
        七夜、宮詣、頭だんご、まま食い、誕生祝、等
 第三節 一般娯楽
 第四節 方言調
 第五節 住宅調
 第六節 伝染病
 第七節 貧民救助
 第八節 生活状態
        家の屋根、家の紋、屋号、電燈燭光調、ラヂオ蓄音機

第十四章  教 育
 第一節 学校教育
        教育沿革
 第二節 社会教育
        青年学校、処女会、少年団、婦人会、青年団、社会教育委員会

第十五章  兵 事
 第一節 壮丁検査
 第二節 忠魂碑
 第三節 在郷軍人会
      会長、事業

第十六章  政 治
        村会議員、区長、学務委員、助役、郡会議員、県会議員、選挙有権者

第十七章  警 察

第十八章  消 防

第十九章  財 政

第二十章  出身人物及び被表彰者
 第一節 出身人物
 第二節 被表彰者



以西村郷土誌


第一章 沿 革

第一節  以西村の沿革

一、荒木ノ郷と称せしこと。
 往昔この地は樹木少なく竹のみ多し、依って荒木の郷と称し、樹木の繁茂を願って大森大明神すなわち木の神を祀る。
 奈良朝時代「和名類箒聚抄」によれば伯耆の国は六郡四十八郷に分かれ、この地は八橋郡荒木郷に属している。
 八橋郡の郡家(群衙)は八橋郡すなわち今の伊勢崎村にあったと目せられる。
 荒木の郷は成美、以西村の地帯を含み、その頃一郷は約百二十戸ありしと言へば、或いはそれよりも少なく荒漠たる荒木地帯なりしやとうかがわる。
 また、一説に新気の庄または荒気の郷とも書し、甲颪の気の荒きを名に取りしとも言ヘリ。

二、以西の郷と称せしこと。
 以西はもと以賽と書す。成美村分乗寺におに田なる字ありて宇仁塚と称する地あり。
 この地、池田王の子孫なる宇仁王が池田以賽守となりて来り住ませし地なり。これ後、後鳥羽上皇隠岐御遷幸の頃なりきと、後池田以賽守は竹の内、今の神主屋敷と称する地に来住せられ池山家の祖となる。
 宇仁王の歌に「以賽野言々」とあり。
 後、以西の郷と称せられ尻立峠より赤碕海蔵寺に至る道を境として八橋、上郷方面を以東郷と称し、これに対して以西、成美を以西の郷と称す。
 伯耆民談記に以西郷一四ヶ村、「大父、大熊、山川、國實、今地、高木、金屋、竹内、今在家、出上、分乗寺、水口、大石、福留村」と記す。

三、明治以後
 明治五年鳥取県管轄第十一大区、小六区八橋郡と称し各村には区長を置き、赤碕に会議所を置きてこれを統轄せり。時の竹内以奥の戸長役場は池田家にあり、池田三郎氏戸長となる。
 後、各村に戸長設置せられ竹内村にては村上友次郎氏(啓吉氏の父)副戸長より戸長となる。

             副 戸 長
                            村 上 友 次 郎
   竹内村戸長申付准等外四等出仕候事
     但下等年給給与候事
        明治八年三月五日
    鳥取県權令
            三 吉 周 亮

  その当時、大熊、國實を合わせて高岡とし、今治、高木を宮木とし、金屋、竹内を竹ノ内と称するに至れり。
 その後、安田、成美、以西を一括して光村に戸長役場を置き、佐伯四郎氏村長となり之を統轄す。しかして光村外十七ヶ村に区長を置き、本村もその管轄下にあることとなった。
 当時は「以西の道無し」と称せられ、事実まったくその通りにて年貢米運搬等には牛に四斗七升俵を一俵づつ荷負わせて畦畔または水の涸れたる小川を通行する状態にて、不便は言うまでもなく、又いかに産業、文化の進展遅々たるかを知る事が出来る。しかし、団結心は現在に勝り、温順、平和なるものなりと。
 現在の県道赤碕高岡間はこの時代、すなわち今より約五十年前に敷設したものにして、この時に到り、始めて進出の機運を呈した感がある。
 明治二十一年四月、自治制公布とともに、組合、役場解散せられ、現在、区域を以西村と称し、今治清元院の南側に役場を置き、小椋為十郎氏第一代村長となる。
 後、村役場は國實川上清太郎氏門内に移転し、その後、更に現在の庁舎地に移転せり。昭和八年現在の庁舎を新築し今日に至る。

就任及び退職年月日 期  間 氏  名 有給又は
名誉職の別
備  考
初代 明治22年11月
同 24年 7月
1年9ヶ月 小椋為十郎 名  誉 _
2代 明治24年8月
同  28年3月
3年8ヶ月 松田松蔵 有  給 安田村八幡の人
3代 明治28年4月
同  34年9月
5年6ヶ月 谷口重雄 有  給 勲七等に叙せらる
4代 明治34年10月
同  44年8月
9年11ヶ月 谷本虎吉 名  誉 _
5代 明治44年9月
大正 4年9月
4年1ヶ月 川上清太郎 _
6代 大正 4年10月
同  9年11月
5年2ヶ月 谷本虎吉 _
7代 大正10年 4月
昭和 2年 7月
7年4ヶ月 中井猶蔵 _
8代 昭和 2年 7月
同  3年 8月
2年3ヶ月 池田周蔵 _
9代 昭和 3年10月
同 10年10月
7年1ヶ月 中井猶蔵 _
10代 昭和11年2月
同 11年5月
4ヶ月 小倉直三 有  給 岩美郡小田村の人
臨時代理として県より任命
11代
(現代)
昭和11年5月 _
川上雄美 名  誉 _

 その間、諸種の難関を突破し諸種の事業を遂行して着々と村自治の歩を進め、船上山の霊気を受け且また各宮殿下御登山の光栄に浴し、村民は盡忠、精励の誠を致すの機運を一層強くし孜々として今日に及べり。


第二節  各部落沿革

一、竹ノ内
 この地は樹木の家を建つる程の木少なく竹林多し、依って竹ノ内と称した。
 旧家としては来家常吉家で十一代前まで明確。石賀姓はその分家である。中井虎吉家、小澤家等も旧家である。

二、金屋
 竹ノ内の出村とも言う。この地内に鉄山があったから金屋と称した。
 旧家としては谷口家で谷口家には元禄享保時代三百年前の位牌があるに依っても分かる

三、宮木
 池田家の前身を高木氏と称した。そして高木部落が出来、今治と合して宮木と称するに至ったのである。
 旧家としては池田家は九百年前よりありしもの、田中正則家は十三代継ぎ、約二百七十年前よりありしもの、山根家もまた古い。

四、大熊
 柴尾神社の前身は熊野大権現であり今大熊の地帯を熊野原と称していた。現字に熊宮と称する地名もある。よって大熊と称するのである。
 旧家としては六百年前より高力家がありし事明らかにて、御崎家、鳥飼家等も古いのである。

五、國實
 國實の名称は國實神社奉祀の國狹槌命の神名より出ている。この辺りは山多く、水利の便利をはかるため、水の神なる同神を祀ったものである。
 旧家としては川上重徳家は萬治年間の位牌あり、今より二百七十余年前であるから相当古い。

六、山川
 山川は今の柴尾神社西方地帯に字前村と称する地があるが、これに民家が多くあったが度々水難に遭い、山と川のみ残ることが多かった。検分の役人も慨嘆して山と川ばかりだと称してこの名がある。
 旧家としては池山則光家は五十一世であり、那須健一家も十三代である。

七、大父
 山川木地、大父木地間の谷を負う谷と称するのは伊弉諾、伊弉冊の二尊がういこ即ち産子せられたのであると伝えらるるが如くこの伝説が多い。この諾尊の名を取って大父と称した。また山川より加平なる者が来住して基をつくりしとも言い、加平屋敷と称する字がある。
 旧家としては前田重太郎家、河上平蔵家で先祖與右門が約二百三十年前である。

八、大父木地
 滋賀県愛知郡小椋庄の住小椋氏代々木地製造業を生業とし後、小椋伯耆守に任ぜられ山間部を伝って旭村古布庄より当村に来た。大父木地に来たのは現小椋重朗氏八代の前である。
  一説に大和国より来りたるを以って大和屋と称すと、小字木地ヶ平に忠兵衛屋敷及墓石あり。
  旧家としては小椋重朗家、小椋馬治家、小椋重三郎家で約二百年前である。

九、山川木地
 古布庄三本杉、小椋儀助百二三十年前移住し来り、代々木地製造業を生業とし、傍ら開墾して新田ヶ平をつくり現今に栄えた。三十年前までは木地業をなし、その用具漆塗戸棚は今も大部分保存している。
 小椋慶治家がその七代の末裔である。始め川東に三軒、川西に三軒あったが川西は絶えた。
 小椋芳雄家には木地免状あり。

十、平田ヶ平
 古布庄別所、入江佐七来住開墾したと伝う。いま佐七井手あり。
 以西村では最も新しい。

十一、岸ノ下
 八橋城津田氏の家臣、大口氏来住して農業を営みしが基と言う。大口家には位牌の立派なもの多し。



第二章 位置区割

一、位  置
 我が以西村は、東伯郡西部に位置し、山陰線赤碕駅より南に歩を辿り成美村(出上、大石、西宮、分乗寺)を過ぐること5.085キロメートル、東西両翼は丘陵にて囲まれ、遥か南方は中国アルプスの甲、矢筈、勝田、船上山等に境し、遠く北方日本海を望み、勝田川を中心とする狭長な平野に位置している。

   四隣   東―八橋町、上郷村古布庄村
         西―成美村、上中山村、安田村
         南―古布庄村
         北―成美村、赤碕町

   東経   百三十三度三十七分五十秒(学校所在地)
   西経   三十五度二十七分五十六秒

二、区  割
 竹 内 区 ― 竹内、金屋二部落  ――――――― 本村の最北部
 宮 木 区 ― 高木、今地二部落  ――――――― 小学校所在地
 高 岡 区 ― 大熊、國實二部落  ――――――― 役場所在地
 山 川 区 ― 山川、山川木地、岸ノ下三部落 ―― 勝田川谷
 大 父 区 ― 大父、大父木地、平田ヶ平 ―――― 矢筈川谷



第三章 広狭、面積

一、面 積
 二六.八五平方粁(昭和十年内閣統計局全国市町村別面積調べによる)
 面積に於いては東伯郡五十ヶ町村中第十一位にして北谷村の二七.六五、上中山村の二八.六六、古布庄二八.六一に接近しており、近村では安田の二倍半、下中山村の四倍、赤碕の三倍、成美の二倍で断然広いのである。

二、広 狭
 東西    五.〇〇〇粁(約一里九町)
 南北   一一.七八二粁(約 三 里)
  南北に長く、東西に狭いが南部山岳地帯は末広がっている。



第四章 地 勢

一、山谷、平野
 東西南北の三方は山に囲まれ、ことに南部は高峻なる山岳地帯をなす。中央の低地は緩く傾き北へ開く。南部の山岳は、中国第一の高峰である大山(標高一七一三米)火山群に属する。矢筈山(標高一三五九米)、甲ヶ山(標高一三〇九米)、勝田ヶ山(標高一一九七米)、船上山(標高九〇〇米)の連峰にして、これらの山々には絶壁をなせるところ多く、中にも船上山の絶壁は屏風岩と称せられてその険阻を知らる。
 東西の山々は連峰の支脈にして北走し、隣村との境界線を造る。東部支脈は西部支脈の高峻なるに反し、北走するに従い平らとなる。この平らなる高台を高野と名づく。台地一帯は黒土にして往時大山の噴火せし時の火山灰の堆積せるものなりとも言い、また腐植土なりとも言へども、その成因は明らかならず。暴風時には土埃舞い上がりて煙かと思わしむることあるより推察すれば火山灰ならんか。
 東西の山に挟まれたる細長き縦谷は以西谷と称し、北へ開けて成美村に接続す。縦谷の南部は更に二つの支谷に分かれ、東なるを大父谷、西なるを山川谷と言う。

二、川 流
 縦谷を貫流する勝田川はその源を勝田ヶ山に発し、山川支谷を流れ、矢筈山に源を発して大父支谷を流下する矢筈川を、両支谷の合する大熊部落の南において合わせて北流し、成美、安田の両村を経て日本海に注ぐ。延長十三粁、水量豊ならざれども水清し。
 時に大雨至れば砂礫を運搬し川床上がりて沿岸の耕地を押し流すことしばしばなり。



第五章 気 候

一、気 象
 中国山脈に沿える山村なるため、降雨降雪の量は共に多く、特に南部山岳地帯に於ては冬期五六尺以上の積雪珍しからず、交通途絶、児童登校困難となること少なからず。雨量もまた多く、赤碕方面晴るるも連山峰の頂は絶えず雲につつまれ、雨を降らすこと多し。風は荒気ノ庄とも言うが如く、勝田川、矢筈川の荒気を受けて絶えず強い山勢を送っている。
 気象観測の設備無きため、気圧、風速、温度、気温、雨雪の量等は正確なる数字は得難きも昭和九年に於ける各月の平均温度を境測候所のものと比較して示せば次の如し。

昭和十年一月 最高降雪量 一.三七米 (学校所在地)
   同      最低気温   零下 七度 (学校所在地)
昭和9年本村学校平均温度 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
3 4 7 12 17 24 27 29 24 16 12 8
境測候所44ヶ年分平均温度 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
3.9 3.9 6.8 12 16 20.7 24.1 26.2 22.2 16.3 11.3 6.5

二、災 害
◆明治元年
 巳の年飢饉には六月頃寒気が烈しく、夏季火を焚いてあたる程であった。十一月十三日に検見があってそれから秋は米が五反に三俵位しかなく、十二月頃、雪ふる中を葛の根を掘って食し、松の内皮を取って食った。また藁と川柳のとうとで餅を作って食べた。
 明治二十六年十月
 水災、大熊において人家二戸、田畑多数流失し、過去において最大のものなりき。
◆大正七年九月
 水災。
◆昭和九年九月
 水災、道路流失五ヶ所、民家流失一戸、山崩れのため一戸倒壊、橋梁流失五個(残るは船上山橋「高さ一五米」のみ)、田畑流失多数。(五輪田の道路も水田も全部流れて、金田商店の土台下まで流れ、大熊の大門橋は流れて部落最南の谷本正義氏宅の床下まで流し去り、大熊部落の川向こうの水田は全部白川原と化した。)



第六章 自然生物

第一節  動 物 篇

 住古本村は動物多数に棲息し、狩猟も簡単に鹿、猪、兎、狐、狼、狸等を捕獲した。山川木地の如きは昼間嫁入りの時でも槍を持って護衛した程であり、今、槍は各戸に蔵している程である。
 現在、主なる生物を次に示すと、

一、獣 類
名 称 科 別 生                    態
 さ る
 あなぐま
(一名むじな)
 て ん
 きつね

 たぬき

 のうさぎ

 かわうそ


 いたち

 かわねずみ

 ぢねずみ

 もくら
猿 科
鼬鼠科

鼬鼠科
犬 科

犬 科

兎 科

鼬鼠科


鼬鼠科

鼬鼠科

鼬鼠科

鼬鼠科
◇往時は多数棲息せるも、現今は極めて稀に見るのみ
◇深き穴を穿ちて棲息す。四月頃六、七頭分娩す。雑食性なり。

◇深林に棲息す。野鼠を主食とするも、鳥類、鳥卵を好食す。
◇兎、野鼠、いたち等の害獣を捕食する外、害虫も食う。
 有益動物なり。毛皮は有用なり。
◇食物は野鼠、爬虫類、両生類、昆虫、果実等にして有益動物なり。
 毛は毛筆に用う。
◇山野に棲息し、小丘を登ること巧みなれども、下りの際は極めて拙劣にして 転倒することあり。食物は植物質なれば作物には有害なり。
◇好みて水辺に棲息す。食物は魚類その他小動物(蛙、かに等)、水禽及び卵を捕食す。足に蹼膜あり。水泳潜水は最も巧みなり。
近年非常に減少す。毛皮は毛皮用。
◇野鼠、家鼠等を捕食して有益動物なるも、池魚、家禽等を襲うことあり。毛皮は毛皮用(但し牡に限る)。
◇主として渓谷の付近に棲息し、水生昆虫、えび、かに、みみず等並びに小魚類を捕食す。遊泳潜水巧みなり。
◇土中に潜み、夜間のみ出て昆虫その他を捕食す。作物を害することあり。
◇地中に孔道を穿ち棲み、日中は深く潜み、夜間或いは早朝、稀れには曇天の日に孔道を通りて活動す。昆虫みみず等を捕食す。

二、鳥 類
 鳥類は概して人生には益をなすものと言えよう。益鳥は鳴禽類に多し。本村におけるその主なるものをあげれば、

名    称 科 別 生                    態
 つ ば め

 こしあかつばめ
 ひばり
 みそさざい
 せきれい
 めじろ
 も ず
 ほほじろ
 しじうがら
 ごじうがら
 やまげら(きつつき)

その他の鳥類では―

 くまだか
 と び
 よたか
 ふくろう
 き じ
 やまどり
 か  も
 おしどり
 ほととぎす
 うぐいす
 かわせみ
 きじばと
燕 科

燕 科
雲雀科
鷦鷯科
鶺鴒科
繍眼兒科
鵙 科
雀 科
四十雀科
五十雀科
啄木鳥科



鷲鷹科
鷲鷹科
蚊母鳥科
梟鴟科
雉 科
雉 科
雁鴨科
雁鴨科
社鵑科
鶯 科
翡翠科
鳩鴿科
◇春、南より来り、秋、南へ去る。候鳥(夏鳥)人家に営巣し育雛時には特に害 虫を多く捕食す。









◇森林中に棲息し、主に樹間に穿孔する虫類を食するを以って体の構造は樹幹を攀づるに適す。




◇森林に棲息し、主に夕刻活動する。昆虫類を捕食す。



◇十月頃北より渡来す。候鳥(冬鳥)

◇姿を見ること稀なり。

◇渓流にのぞめる樹上にすみ、水中に餌物を採る。

三、蛇 類
名  称 科 別 生                    態
 ひばかり
 やまかがし
 あおだいしょう
 ま む し
游蛇科
游蛇科
游蛇科
蝮蛇科

(俗称からすへび)
(俗称なくさ)
◇有毒

四、蛙 類
名   称 科 別 生                    態
 にほんひきかえる
 にほんあまかえる
 やまあかかえる
 とのさまかえる
 つちかえる
 かかしかえる
 いもり
蟾蜍科
雨蛙科
赤蛙科
赤蛙科
赤蛙科
赤蛙科
井守科





◇七月〜八月に亘り渓流の辺に産卵す。清聲を以って聞こゆ。
 (有尾目)

五、魚 類
名 称 科 別 生                    態
 ま す
 いわな
 やまめ

 あ ゆ
 うぐい
 こ い
 おいかわ
 かわむつ
 うなぎ
 やつめうなぎ
 どじょう
 しまどじょう
 かじか
 たなご
 ぜにたなご
 めだか
鮭 科
鮭 科
鮭 科

鮭 科
鯉 科
鯉 科
鯉 科
鯉 科
鰻 科
八目鰻科
泥鰌科
泥鰌科
鰍 科
鯉 科
鯉 科
目高科

◇山間の渓谷に産す。體側に数多の淡色斑点あり。
◇山間部に生活す。體側に十個の黒点あり。関西ではあめごと称し、
 中国ではひらめと称す。
◇川魚の王として貴ばる。


(俗称、白はえは雌なり)
(俗称、赤ばえ 雄の生殖期に赤くなれるもの)




(俗称、ざっこ、又はいしぶし、上部暗灰色下方白し)

六、斧足類
名  称 科 別 生                   態
 しじみ
 からすかい
 まるたにし
 かわにな
 まいまい
 ぬかえび
 さわがに
蜆 科
烏貝科
田螺科
川蜷科
蝸牛科
蝦 科
蟹 科




 陸上に棲息

七、昆虫類
A、益虫の主なるもの
名  称 科 別 生                    態
a、有害な虫を斃すもの
 と ん ぼ
 やどりばち


 じかばち

 かまきり
 ほたる
 てんとうむし

b、工芸材料を供するもの
 かいこ
 みつばち
 いぼたろうむし
 ふしばち
 ふしのあぶらむし

蜻蛉科
膜翅科


土蜂科

蟷螂科
蛍 科
瓢虫科


蚕蛾科
蜜蜂科
有吻類
膜翅類
有吻類

幼虫(やご)ぼうふらを捕食す。成虫小虫を食う。
卵を毛虫、ずいむしの幼虫、その他の昆虫の卵または幼虫の體に産み付ける。この卵から孵化した幼虫は終にその昆虫を喰い斃す。
芋虫などを刺して麻痺させ、土中の穴に引き込み、その体内に産卵し、入口に土を被せておく。
害虫を捕食す。
幼虫は病原虫の媒介をするものあらがいを食う。
あぶらむしを捕食す。


(衣服)
(蝋)
(蝋)
(没食子−染料、薬用)
(五倍子−染料)

B、害虫の主なるもの
a、稲の害虫
 つまぐろよこばい、稲の青虫、どろむし、いなずまよこばい、縦葉巻虫、とびいろうんか
 くろがめし、ずいむし、いなご
b、大豆、粟、麦の害虫
 針金虫、けら、粟のずいむし、姫こがね
c、蔬菜の害虫
 紋白蝶、夜盗虫、根切虫(きりうじ)、瓜守、てんとうむしだまし、あぶらむし
d、果樹の害虫
 梅けむし、梨の芯喰い虫、みかんのはむぐりむし、星かみきり、桃芯喰虫
 藍色かみきり、もものじかきむし
e、桑の害虫
 桑のかみきり、桑枝尺蠖、桑姫象虫、桑介穀虫
f、貯蔵穀物の害虫
 穀象、麦蛾、穀蛾、小豆象蛾
g、伝染病原体の傳播をなすもの
 はい、のみ、か、しらみ
h、衣服、書籍を害するもの
 しみ
i、その他
 あぶ(虻科)−牛馬、ぶゆ(蚋科)−人、かいこのうじばい−かいこ

C、その他の昆虫(鳴く虫)
 こうろぎ、くつわむし、にいにいぜみ、まつむし、みんみん、すずむし、ひぐらし、うまおい
 あぶらせみ


第二節 植物篇

一、高山植物の部

 A、矢筈山、甲ヶ山、勝田ヶ山、船上山において採集せしもの  
  うまのすずくさ  (馬兜鈴科)
  そくづ       (忍冬科)
  がまずみ     (忍冬科)
  ぶなのき     (穀斗科)
  おぐるま      (菊 科)
  つくばねそう   (百合科)
  おにゆり      (百合科)
  ひかげのかず  (石松科)
  きじむしろ     (薔薇科)
  りょうぶ      (令法科)
  たむしば      (木蓮科)
  じんばいそう    (蘭 科)
  ししうど      (散形科)
  こうぞりな     (菊 科)
  くるまむぐら    (茜草科)
  はうちわかえで (楓樹科)
  くさむね      (荳 科)
  しもつけそう   (薔薇科)
  おとぎりそう   (金絲桃科)
  なるこゆり    (百合科)
  ちごゆり     (百合科)
  はりぎり     (五加科)
  ほたるぶくろ   (桔梗科)
  やまははこ    (菊 科)
  さらしなしょうま (毛莨科)
  のきしのぶ    (菊 科)
  しじゃくしだ   (水龍骨科)
  ほととぎす    (百合科)
  やまぶどう    (葡萄科)
  ほつつじ     (石南科)
  うりはだかえで  (楓樹科)
  いわおとぎりそう (金絲桃科)
  すきごけ     (蘚 類)
  とうげしば    (石松科)
  くましで      (樺木科)
  ななかまど    (薔薇科)
  だんこうばい   (樟 科)
  つるりんどう   (龍謄科)      のからまつ    (毛莨科)     かにこうもり  (菊 科)
  いわかがみ   (岩梅科)     いわひば[岩松] (岩松科)

 B、矢筈山、甲ヶ山、勝田ヶ山において採集せしもの
  かわらなでしこ  (石竹科)

 C、矢筈山、船上山において採集せしもの
  だいこんそう   (薔薇科)

 D、甲ヶ山、勝田ヶ山において採集せしもの
  つのはしばみ   (樺木科)

 E、矢筈山、甲ヶ山において採集せしもの
  きゃらぼく    (一位科)

 F、矢筈山において採集せしもの
  さんかよう    (小葉科)   とちばにんじん  (五加科)
  みずたまそう  (柳葉菜科)   おだまき     (毛莨科)


 G、勝田ヶ山において採集せしもの
  いわしょうぶ  (百合科)     ちゃぼせきしょう (百合科)
  ぎぼうし     (百合科)

 H、船上山において採集せしもの
  とくさ      (木賊科)     くまざさ     (禾本科)

二、用材となる主なもの
  あかまつ[めまつ] (まつ科)     くろまつ[おまつ] (まつ科)    くまざさ     (禾本科)
  すぎ       (まつ科)     あすなろ     (まつ科)    けやき      (にれ科)


三、薪炭材の主なるもの
  ぶな       (ぶな科)     こなら(ははそ) (ははそ科)   くぬぎ      (ははそ科)
  く り       (ぶな科)      かし       (ぶな科)

四、食用に供せらるるもの
 a、実を食すもの
  くり、いちょう、とち、やまぶどう、くまいちご、やまなし、あけび、あきぐみ

 b、嫩茎を食するもの
  うど、わらび、ぜんまい、ふき、ぎぼうし

 c、その他
  ぬるで(薬)、うるし−実(蝋)−樹皮より(漆汁)、むくろし−実(羽子の珠)
  やまのいも−根、くず−根(澱粉)、ゆずりは−枝葉(飾り)

五、蕈菌類
   しいたけ、まつたけ、しめじ、はつたけ、えのきたけ(なめこ)、くりたけ、ひらたけ、こうたけ
   つきよたけ(有毒)−ぶなの樹幹に多く生ず。夜、白光を認む。
   さるのこしかけ(樹皮に生ず。食用とならず、樹木に寄着して水平なる位置に結実体を生ず。
   猿の腰を掛くるに適する形態をなす。さるのこしかけと言う。

六、校庭の樹木
   やまざくら (いばら科)   やえざくら    (いばら科)    くろまつ    (まつ科)
   ごようのまつ(まつ科)    からまつ     (まつ科)     すぎ      (まつ科)
   いちょう  (いちょう科)  ひのき      (まつ科)     もみ      (まつ科)
   さかき   (つばき科)   もちのき     (そよご科)    きんもくせい  (ひいらぎ科)
   ぎんもくせい (ひいらぎ科) しだれやなぎ   (やなぎ科)    いちじく   (くわ科)

  船上山のぶなは高山植物にして、原始林をなし、天皇屋敷と称するあたり千本ぶなと称する林あり。幹の周囲大小なく一定せるは不思議なり。



第七章 産 業

第一節  総  説

 本村第一の産業は農業であるが耕地が割合に少なく、その上冬季気温が低く積雪大なるをもって農産物の産額が割合に少ない。しかし山林、原野が殊に多いので林業、牧畜は盛んである。また近年養蚕業が発達してきた。養鯉は水の清らかなのと趣味経済両方面を兼ねた上から逐年発達の傾向にある。その他農業の調製も漸次工業化し、木材による工業工芸品も増加して農村工業化の実を示しつつある。 本村の地目別面積を示せば次の通りである。
年次  種別 田(町) 畑(町) 宅地(坪) 山林(町) 原野(町) その他(反)
大正5年 157.3 53.1 35332 368.8 377.5 2.6
大正10年 148.8 54.1 35237 352.3 370.6 2.6
大正14年 156.8 57.0 35139 353.3 371.4 2.6
昭和6年 159.22 54.4 36977 355.63 415.98 2.6
昭和7年 159.22 54.4 36977 356.21 416.20 2.6
昭和8年 159.63 53.9 36682 356.23 416.27 2.6
昭和9年 133.26 53.3 36682 355.63 416.41 2.6
昭和10年 133.26 52.7 36509 355.59 416.41 2.6
昭和11年 133.26 53.3 36426 355.53 417.73 2.6


第二節  農  業

一、農業の発達及び自小作
 勝田川、矢筈川の二川は流域に沖積土を形成し、共に小なる平地を作り二川合する高岡以北はやや広く開けて農業が発達し村総戸数246戸中農家戸数238を示している。
 本村における小作地主間は頗る円満に行き、自作農も漸次増加の傾向にある。 次に自小作別田畑面積を上げれば
年次   種別 自    作 自作兼小作 小    作
田(町) 畑(町) 田(町) 畑(町) 田(町) 畑(町) 田(町) 畑(町)
昭和6年 52.1 24.8 45.4 20.8 42.6 37.9 140.1 83.5
昭和7年 51.5 24.4 45.5 20.8 43.1 37.8 140.1 83.0
昭和8年 51.5 24.4 46.0 20.8 42.2 37.2 140.5 81.1
昭和10年 51.6 23.1 46.7 20.8 42.2 37.2 140.5 81.1
昭和9年
自小作別戸数
45戸 106戸 95戸 246戸

二、米 産
 農産物中、米は最も主なもので農家一戸平均五反八畝強を栽培し、その収穫も今より約五十年前の明治二十年頃は反当五俵位であったものが、年々耕作法の発達、堆肥、過燐酸石灰、硫酸加里、緑肥等の合理的施肥法の研究、新品種の移入等によって現在では平年反当七俵豊年には八俵、九俵を産し坪刈品評会の成績では十一俵位を産するに至った。
米の年次別生産額
年次    種別 収 穫 高 価   格
大正4年 2648石 35,748円
大正5年 3311石 48,001円
大正9年 2644石 79,895円
大正10年 2523石 不  詳
大正15年 2687石 90,884円
昭和6年 2655石 40,112円
昭和7年 2922石 58,960円
昭和8年 3866石 81,305円
昭和9年 2810石 73,510円

三、麦の産額
 麦は米に次ぐ農産物であるけれども何分冬季積雪が多いために被害の多いのと緑肥として紫雲英の発達のためにその栽培面積を逐年減じつつあった所に近年油菜栽培の流行と米作早植増収法の流行によってその産額も減少の傾向にある。  麦の年次別生産額、価格の統計を示せば次の如くである。
年次    種別 収 穫 高 価   格
大正5年 507石 2,313円
大正10年 566石 4,744円
大正14年 480石 5,037円
大正15年 496石 不  詳
昭和6年 348石 2,242円
昭和7年 391石 3,563円
昭和8年 380石 3,844円
昭和9年 300石 2,873円
昭和10年 389石 3,870円

四、その他の農産
 またこの外、大豆、小豆、蚕虫、菜豆、豌豆等の豆類。玉葱、甘藍、白菜、京菜、体菜、葱、牛蒡、馬鈴薯、山の芋、里芋、ホーレン草、人参、大根、蕪菁、胡瓜、南瓜、茄子、蕃茄(トマト)、蕃椒(トウガラシ)等の蔬菜を或いは水田畦畔の利用に或いは水田の裏作に、空地の利用に栽培しているが、市場の遠いためにあまり発送していない。併し近年水田の裏作として玉葱、甘藍の栽培増加せるは誠に喜ばしい。
 土当帰(ウド)は本村の気候に最も適し船上山をはじめ至る所に野生している。雪の消える頃これを掘取り、紫土当帰と称して市場に出してその風味の高さと味の勝れたるをもって名高く相当の収入を得ている。この点よりして之が栽培法を研究するは将来有望の事と信ずる。
 また甘藷は広漠たる高野の土質に適し、その味の良なるをもって聞こえ、産額も逐年増加の傾向にあり、近年満鮮移出の域にまで達している。――― 伯耆民談記には船上山の土産は梅と出ているが、今では梨、柿、葡萄等の果樹類を高野に栽培し、殊に梨は土質に適したるため、品質優良にしてその産額も逐年増加の傾向にあり、近年梨の栽培出荷組合を組織して京阪地方に出荷し(昭和十年において八〇〇貫目価格四百八十円)、鳥取県二十世紀の一部を担当している。
 その他に住宅の空地利用として、蜜柑、梅、李(スモモ)無花果等を栽培し、他に移出の量は少なけれども自家用として相当の産額を示し、四五十年前は藍麻等を作っていたが今では楮、三椏等の工芸作物も荒地の利用に一五町の作付反別を示し収穫高も価格にして千数百円を算している状態である。


第三節  牧 畜

一、牛
 本村は原野非常に多く、417町余りもあるので牧畜が盛んである。殊に船上山麗の原野、高野の原野には年中沢山の牛を放牧し、朝農家の厩を出して貰えば彼等自身この広漠たる原野に至り、終日草を食し、夕方再び彼らのみにて各農家の厩に帰る様は本村に非ざれば見る事の出来ない美しい有様である。
 この様にして育った牛は形質実に良好にして以西牛の名は年々高く、年数回赤碕町において開かれる牛市には隣村のものを圧して異彩を放ち競って以西牛を購わんとするの状態に至らしめたり。
 飼育頭数は大正初年に比して減少せるも昭和十年において成牛373頭、農家一戸平均1.55頭を飼育し犢牛の生産は逐年増加して183頭、農家一戸平均0.76頭を産し、価格も年1万円以上、農家一戸平均45円を算している。 牛の年次別生産額を示せば次の通りである。
年次   種別 牛の頭数 犢牛頭数 犢牛頭数
大正4年 779頭 121頭 1,210円
大正9年 425頭 138頭 8,280円
大正14年 435頭 130頭 9,087円
昭和6年 346頭 144頭 5,740円
昭和7年 388頭 123頭 5,385円
昭和8年 398頭 164頭 7,206円
昭和9年 372頭 176頭 11,430円
昭和10年 373頭 183頭 10,782円

昭和11年12月20日現在
 以西村内部落別牛の飼育頭数
部落別  頭数別 一頭飼育セル家 二頭飼育セル家 三頭飼育セル家 四頭飼育セル家 合計頭数
大父木地 成牛 - 25
犢牛 - - -
大父 成牛 13 14 - 47
犢牛 - - 11
山川木地 成牛 19
犢牛 - - -
山川 成牛 13 13 - 45
犢牛 - - -
平田ヶ平 成牛 - 10
犢牛 - - -
國實 成牛 10 - 30
犢牛 - -
大熊 成牛 14 54
犢牛 - - 17
宮木 成牛 - - 11
犢牛 - - - - -
金屋 成牛 12 - 31
犢牛 - -
竹内 成牛 15 - - 21
犢牛 - - -

二、その他
 なお、牛の外、家畜として馬、豚、山羊、家兎、鶏を飼育せるもその数少なく数うるに足る。
 鶏は農家の屑米、こぼれ米の利用として副業に飼育し、卵は多く自家用にしているが、昭和10年における鶏の飼育数は71戸、215羽、卵の生産年35,520個、価格710円を示している。
 養鯉は水の清らかな事と趣味経済両方面より年々飼養戸数を増やし、昭和11年において59戸を算するにいたる。


第四節 林 業

一、木 材
 本村の山林面積は355町余、以西村総面積の約三割五分を占め、赤松、黒松、ひのき、あすなろ、杉等の針葉樹、かし、栗、なら、けやき、くぬぎ等の濶葉樹鬱蒼として茂り、また船上山はじめ奥部には、ぶなの原始林の昼なお暗きまでに茂れる様、実に雄大にしてこれら山林より伐採する木材は用材として年々約600石(昭和十年605石)価格にして約三千円(昭和十年2,968円)である。

二、木 炭
 濶葉樹は年々薪炭としてこれを利用し農家戸数の約一割は副業として炭焼きに従事しその産額逐年増加の傾向を示し、昭和十年において56,235貫、価格8,997円を産す。 その年次別生産額次の如し。
年次    種別 収 穫 高 価   格
大正5年 46,240貫 3,236円
大正10年 18,520貫 4,259円
大正14年 22,570貫 5,191円
昭和6年 54,590貫 7,643円
昭和7年 59,505貫 7,788円
昭和8年 50,000貫 7,000円
昭和9年 55,000貫 8,585円
昭和10年 56,235貫 8,997円

三、その他
 この他、林産物として薪の約950棚は価格にして約900円、竹材又年々約900束、価格約100円を産し、本村経済を豊かならしむるものである。
 副産物としての野兎(年々百数十匹)、山芋(年々数十貫)、栗(年々十数石)キノコ類(ヒラタケ、シイタケ、コータケ、ハッタケ、松茸、ナメコタケ等)、ワラビ、ゼンマイ、筍、フキ、ウドは年中各家の食膳を飾ってなお余りあるの状態である。
 その他筍皮は加工用として、カヤは屋根に用いてその効用大なるものがある。


第5節  養 蚕

 養蚕業は繭高の好景気時代非常な勢いをもって発達し、水田に桑を植え付ける有様であったが数年前の繭安に引き合わず桑を掘り取り稲を植え付けて一時下火となるかの感を呈していたが、往昔別所村入江なる者、高野を田地となすため國實より勝田川の水を通さんと井手をつけ、今その跡のみ残れるが現在では高野の広野を買い入れ年々開墾してこれに桑を仕付け現在四十二町歩の桑園より出来る四万二千貫の桑をもって副業として発達し、昭和十年において8,761貫、農家一戸平均三十六貫五〇〇匁の繭を生産し、価格にして41,373円、農家一戸平均166円60銭の収入を得ている。
 繭の年次別生産額は次表の通りである。
  繭の年次別生産額
年次    項目 収 穫 高 価   格
大正5年 1,750貫 8,257円
大正9年 1,410貫 9,545円
大正14年 5,301貫 55,066円
昭和6年 7,519貫 22,255円
昭和7年 9,088貫 29,623円
昭和8年 10,835貫 43,605円
昭和9年 7,379貫 17,113円
昭和10年 8,761貫 41,373円
 繭は年によって価格に非常な差異あり、一概には言えないが副業として将来益々発達することは望ましいことである。


第六節  工 業

一、木地工芸品
 往昔本村木地部落は轆轤(ろくろ)による木地製造業者が多数を占めていたことが窺はれる。
 小椋浅蔵氏は現在に残された唯一の同業者であるが、船上山下に工場を建て水力により火鉢、盆、椀、茶卓、スキー等あらゆる精巧な繰物木地製品を出している。

二、製 材
 大熊村外れにある水力利用製材工場は本村における唯一の工場である。
 大正十三年九月の設立にして小椋重朗氏外二十余名の組合組織になっている。約一町余りの川上から土管を持って工場内に引水し、落差によって高さ一丈一尺のコンクリート製タンクの中に満水する。タンクは二四七立方尺の水圧により下部横に設けたるタービンを回転して約十馬力の動力を起こし、これによって二台の回転鋸と一台の枌挽機とを運転せしめる。一日平均十五円位の純益を揚げ得るのである。
 但し現在においては仕事が無いため休む日が多い。依って精米機をも兼営せんとする議が起こっている。
 最近の成績を示せば
    昭和 九年   純 益   千  円
    昭和 十年   純 益   六百円
    昭和十一年   純 益   四百円
 このうち約一割半が枌による利益である。
 近時、大父村、木山氏も水力及発動機により製材所を経営している。

三、その他
 手工業として冬季の副業に行わるるものには笊(ざる)、籠等の竹細工、みの、びく、わらじ、莚蚕網、草履等の藁細工、女子の機織、豆腐製造等が行われる。

四、発動機水車  近年、稲扱、米の調製、米搗等に発動機を使用するもの漸次増加し、本村における昭和十一年度発動機数
発動機数 一馬力半 二馬力 二馬力半 三馬力 三馬力半 五馬力
一三 -
の通りである。
 水車数は漸次減少の傾向にあるが、これは能率の増進と整理によるものであろう。
 水車年次別数
年次  種別 軒  数 臼の数
昭和四年 二三軒 四七臼
昭和五年 二一軒 四二臼
昭和六年 二一軒 四二臼
昭和七年 一九軒 三九臼
昭和八年 一八軒 三七臼
昭和九年 二十軒 四一臼
昭和十年 二十軒 四一臼


第七節  産業団体

一、以西村信用購買販売利用組合
 設立以来年浅く、今のところ購買部が主として活動し、農家の重要購買物たる肥料馬糧を主として取り扱っているが、現在以西村使用の肥料、馬糧の約半数をこの購買部を経て購入している状態にて昭和11年において肥料693点、金額1,940円、馬糧1,325点、金額2,647円を算している。
 次に本会関係の大要を示せば
事 務 所 ―――― 以西村大字高岡(以西村役場内)
設立年月日 ―――  昭和6年1月10日
会 員 数 ―――― 現在118名
会員申込 ――――  申込金二円を添えて申込めば何時にても会員になることを得
倉   庫 ――――  成美信用購買販売利用組合支庫として
                昭和9年7月31日設立
                坪 数     二十 坪
                昭和十年四月より使用
                設立費 1560円(内県補助1000円、会員寄付560円)
                内容品 肥料及び馬糧
              ◇昭和11年取り扱い肥料の概要
                 総点数 693点    金額 1940円
             参考までに肥料の種類別点数、金額を示せば――――

 種  別        点  数      金  額
い特五号燐酸      53叺      127円
硫酸アンモニア     15叺        60円
つかさ化成肥料    125叺       425円
片倉五号燐酸      13叺        30円
精過燐酸        100叺       180円
硫曽曹五号       30叺        72円
燐酸加里        200叺       480円
 種  別       点  数       金  額
大日本八号      15叺         52円
硫酸加里        10叺         47円
みずほ化成肥料    20叺         84円
窒加燐         20叺         72円
国製八号桑肥     52叺        168円
富国化成肥料     30叺         99円
              
               ◇昭和11年取扱馬糧の概要
                 総点数  1,325点    金額  2,647円
 参考までに馬糧の種類別点数及金額を示せば――――
 種  別      点  数      金  額
   糠        600俵      900円
 大豆玉       325玉       75円
   麸        300袋      750円
種  別       点  数    金  額
豊年豆粕       20叺      60円
脱脂糠         80叺     216円
 
 役 員
 役  員    氏  名      就任年月日
会長第一代  中井猶蔵    昭和  六年二月  七日
同  第二代  小椋重朗    昭和十一年五月十五日
理  事    中井猶蔵    昭和  十年五月十五日
  同      入江実蔵         同
  同      永田熊吉         同
  同      表 金美          同
 役  員   氏  名      就任年月日
 理  事   小椋重朗    昭和十年五月十五日
  同      小椋新一         同
  同      高力虎蔵         同
  同      谷口辰吉         同
  同      椎本柳次         同

二、以西村農会
   大正十二年一月一日設立以来農事の改良に努め
   昭和十年四月一日の農会規則改正
   昭和六年五月以来技術員を設置して益々その改良発展を期している。
   年四回牛の品評会、”基礎牝牛保留補助検査”等を行う。
  設立年月日 ―― 大正十二年一月一日
  現会員数   ―― 二八六名
  事 務 所  ―― 以西村役場内    役   員
 役  員     氏  名      就任年月日
会長第一代   中井猶蔵    大正十二年一月 一日
同  第二代   池田週逸    昭和  三年 三月
同  第三代   中井猶蔵    昭和  四年 四月
同  第四代   小椋重朗    昭和十一年 三月
副会長(現在)  川上重徳    昭和  十年 四月
書 記(現在)   那須伊勢雄   昭和  八年四月 一日
 役 員     氏 名    就任年月日
評 議 員    田中乙松  昭和十年 四月
  同       高力米蔵     同
  同       小椋重朗     同
技術員第一代 廣芳重好  昭和六年 五月
  同 第二代 鷲見忠幸  昭和七年 五月
  同 第三代 遠藤 登   昭和七年七月

三、養蚕実行組合
   昭和七年十月一日設立以来養蚕の奨励改良に努めている。
  事 務 所  ―― 以西村役場内
  設立年月日 ―― 昭和七年十月一日
  現在会員数 ―― 二一一人   役  員
 役  員    氏  名     就任年月日
会長第一代  中井猶蔵  昭和  七年十月 一日
同  第二代  中井正巳  昭和十一年九月 十日
副会長(現在) 高力市蔵  昭和  七年十月 一日
 理  事    中井猶蔵  昭和 十年五月二六日
   同     齋尾万蔵       同
 役  員    氏  名     就任年月日
 理  事    高力市蔵  昭和 十年五月二六日
   同      川上武治       同
   同      表 金美        同
   同      小椋信雄       同
   同      那須健一       同
   同      小椋新一       同



第八章  住 民

一、人口調査
 本村における昭和10年施行の国勢調査によれば総人口は1,533名で内男778名、女755名でこれが実際居住する実人口である。 次に明治42年以降の人口数増減を示せば
増減 ○印増 ▲印減
明治42年 722 722 1,444
大正3年 743 737 1,480 ○36
大正8年 769 742 1,511 ○31
大正13年 808 769 1,577 ○66
◎大正14年 775 772 1,547 ▲30
昭和4年 780 795 1,579 ○32
◎昭和5年 770 782 1,552 ▲29
昭和6年 792 779 1,571 ○19
昭和7年 790 808 1,598 ○27
昭和8年 797 822 1,619 ○21
昭和9年 819 829 1,638 ○19
◎昭和10年 778 755 1,533 ▲105

 ◎印は国勢調査による人口であり、他は主として、戸籍面を基準とした人口である。
 この表によると戸籍面において年々死亡と出生と差引き約二十名余りの増である。
 
 ☆近隣町村人口(昭和十年国勢調査)
赤碕町    3981         下中山村    1857
成美村    1829         上中山村    1594
安田村    1660
以西村の人口は近隣町村に比して上中山の次に位し最下位にある。
◇部落別人口及び戸数
部落名 戸数
竹  内 106 100 206 34
金  屋 68 75 143 28
宮  木 84 89 173 27
大  熊 111 101 212 30
国  実 96 83 179 29
大  父 94 96 190 33
平田ヶ平 23 21 44
大父木地 38 37 75 13
山  川 126 120 246 43
山川木地 32 33 65 15
778 755 1533 260

◇年齢別人口
年 齢 別
15歳以下 294 269 563
16歳以上
 〜59歳
388 378 766
60歳以上 96 108 204
778 755 1533

◇職業別人口
職  業
農  業 715 77 792
商  業 12
工  業 25 20 45
公務自由業 23 23 46
その他 10 13 23

◇出稼人調
出稼地
内 地 82 46 128
植民地
外 国
89 49 138

大正十四年、昭和五年、昭和十年の各年度において、いずれも人口の減少しているのは、他が多く戸籍面を基準としたるものなるにこの三ヵ年度のものは国勢調査基準の実人員であるからである。すなわち前年との差は、他地方に出稼ぎに出ている者の数である。大正十四年、昭和五年の30前後に比較して、昭和十年の108はいかに近年になって出稼者が増したかを証明せるものである。
 出稼者は主として都市に移動したもので、しかも少壮有為の青年子女が多い。

◇以西村出生死亡及び婚姻離婚数表
年  度 出 生 死 亡 自然増加 婚 姻 離 婚
明治42年 36 22 14 17
大正3年 50 21 29 24
大正8年 46 34 12 26
大正13年 55 25 27 28
大正14年 45 20 25 25
昭和4年 71 42 29 22
昭和5年 51 39 12 20
昭和6年 61 41 20 29
昭和7年 56 28 28 29
昭和8年 59 28 31 16
昭和9年 59 22 37 26
昭和10年 60 35 25 33

 昭和四年より昭和十年までの7ヶ年間、出生、死亡、自然増加、婚姻、離婚の平均千分比を求めると、出生、37.8。死亡21.3。自然増加16.5。婚姻15.8。離婚2.7となる。これを大日本帝国及び日本内地の数と比較すれば以西村がはなはだしく各種とも効率にある事が知られる。

◇日本(全国版)、日本内地、以西村比較表
 (日本及び日本内地統計は昭和十二年朝日年鑑による。昭和八年の統計なり。)  

 人口千人に付
土  地 出 生 死 亡 自然増加 婚 姻 離 婚
日  本 31.7 18.2 13.5 7.1 0.6
日本内地 31.6 17.8 13.8 7.2 0.7
以西村 37.8 21.3 16.5 15.8 2.7

 本村住民はよく結婚し、またよく離婚する。よく生まれるがよく死ぬる村民である事が知られる。離婚の多いのは村民性によるものかどうか、栄養に関係があるか、または衛生方面に関係があるか目下不明であるが、これを調査研究することは以西村の急務であると思う。
 出生、死亡,人口自然増加、婚姻、離婚に関する世界、日本の最大及び最小の地方と本村を比較すれば次の如くにして、出生においては日本にては台湾に及ばず、全世界にては及ぶものなく、死亡、婚姻共に南洋委任統治地に及ばない。離婚は世界一を誇るアメリカも遠く本村に及ばない。一般にどこの地方も離婚と婚姻は正比例している。

◇出生、死亡、自然増加、婚姻、離婚に関する以西村と日本、世界各地の比較表
(人口千人に対する比)
地 名 出 生 死 亡 自然増加 婚 姻 離 婚
以西村 37.8 21.3 16.5 15.8 2.7
地名 地名 出生 地  名 死 亡 地名 自然増加 地  名 婚姻 地  名 離 婚

日本 台湾 43.7 南洋委任
統治地
24.7 台湾 24.2 南洋委任
統治地
11.5 南洋委任
統治地
3.6
世界 印度 34.2 印度 21.2 印度 13.0 ドイツ 9.7 アメリカ 1.3

日本 朝鮮 29.0 関東州 14.5 朝鮮 9.7 関東州 4.3 関東州 0.1
世界 スエーデン 13.7 和蘭 8.8 フランス 0.5 カナダ 6.0 イギリス 0.1




第九章  交通・通信

一、交通の沿革
 往昔の本村はまことに交通不便であった。”以西に道なし”とは何人も唱えし所である。
 奥部より赤碕方面へ出る人や牛馬は畦畔をたどり水涸れの小溝をつたってようやく歩いたものである。ただ今地より以北は高野に上って街道松の間を赤碕海蔵寺方面に出た。街道松は池田家と赤碕船越家との共同事業にて植えたるものにて、今、池田家に当時の人夫帳あり。かくて松並木の街道はおたてと称し古くからの重要な交通路をなしたのである。
 然るに明治廿一年まず赤碕より大熊に至る道路が敷設されて大いに利便を増したが、大正四年大父木地小椋重朗氏が県会議員として県会に臨まるるに当り赤碕船上山線、赤碕三本杉線を県道に編入され、さらに史蹟保存会生まるるに及び昭和七年大熊船上山間の道路改修成って今日に至った。
 赤碕より本村に至るには、五粁余りの奥部であるが、毎日祇園兄弟定期自動車五回往復あり。冬期を除く他、一日二回の船上山直下に至るまでの登山客往復自動車もあり実に隔世の感あるに至った。

二、現代における交通
 A、以西村内県道
    赤碕−船上山線 7.17粁    赤碕−三本杉線 4.59粁
 B、以西村内村道
    41路線  13,815米
 C、他村へ通ずる道路には、
  イ、北方成美村を経て赤碕町赤碕駅に通ずるもの。
  ロ、今地より高野を越えて八橋町に通ずるもの。
  ハ、國實より鍋坂を越えて上郷村に通ずるもの。
  ニ、大父木地より尻立峠を越えて古布庄に通ずるもの。
  ホ、山川木地より船上山を経て中国アルプスを縦走し山守大山に通ずるもの。
  ヘ、船上山より上中山へ出て大山に通ずるもの、これは将来新道路敷設され国立公園の北廻り線となる予定なり。
  ト、大熊より成美村に通ずるもの。
   等である。

三、橋 梁
 主なものは船上山橋、大門橋、大熊橋、大父橋、山川木地橋、大父木地橋等があるが、これらは度々の水災に流失の憂目を見たが昭和十年以来立派なものが改修された。

四、交通量

◇以西小学校前における交通調査
日  時 方向 荷車 自転車 馬車 自動車 合計
昭和十一年
十二月六日調
(日曜 赤碕牛市)

30 47
157 10 28 199

186 10 23 228
31 48
404 31 67 10 522
一時間平均 40.4 3.1 6.7 0.4 1.0 52.2
昭和十一年
十二月十日調
(晴天平日)

210 26 250
255 15 22 296

208 15 231
155 30 190
823 33 93 10 967
一時間平均 82.3 3.3 9.3 0.3 1.0 96.7

五、交通機関
 本村における交通の最も重要な機関は次の三種でその受鑑札数を示せば(昭和十一年十二月現在)
  自転車数 81台、 荷車数 85台、荷馬車数 2台
  外に 馬匹 3頭、 籠 4梃

六、通 信
 郵便の配達区は赤碕局に属し、一日一回の配達である。電信は発信には赤碕局まで出づるを要し、受信は郵便配達時間に一致せざれば特別配達区に属し、一信六拾銭の配達料を要する。電話は未設置なるゆえ成美村へ出るを要するが、将来必ず設置さるべき必要性のあるものである。



第十章 名所旧蹟

第一節 船上山

一、船上山概観
 山陰の中央大山火山群の一支峰にして標高六八〇米である。頂上は平夷にして東西北の三面は断崖絶壁をなし、山勢すこぶる天儉に富み巍然として曠原の上にそびえている。
 昭和七年五月三日、文部省が百七十六町七反歩を第一類史蹟として編入し建武中興発祥の靈地として満天下に紹介せらるるに至った。
 また眺望と奇勝に富むの故をもって四季杖を引くものが絶えない。
 かくして史蹟と名勝兼ね備えたる船上山は昭和十一年ついに大山国立公園の区域内に編入さるるに至った。

二、元弘史と船上山
 イ、後醍醐天皇
 人皇第九拾六代後醍醐天皇はまことに御英明にわたらせられ儒佛詩歌管絃いずれにも秀でさせ給うた。
 文保二年二月、御年三十一歳にて御即位あるや醍醐天皇以前の正しい国家に囘えさんと後、自身後醍醐帝と称せられた程であるがこれは日光寺に伝わる鐡椀の銘に明らかに刻せられているにでも分かる。
 かくて御理想としては院政廃止、幕府政治の廃止、摂関政治の廃止の三大方針のもとにいよいよ関東討伐のご計画をすすめさせられた。そこで天皇は御即位の当日第一皇太子護良親王を出家せしめ叡山の天台座主として僧徒を味方とすべく竈つとめられた。その決然たる御決心の程も伺い奉る事が出来る。
 後、藤原の資朝俊基師賢藤房隆資等青年公卿を朝廷に抜擢して密かに叡山の儒僧北畠玄慧を召して昌黎文集朱子新註等を講ぜしめ大いに中興精神を鼓吹したのであるが、資朝俊基の企ては正中の變に終に遠島の厄に逢い目的を達し得なかったのである。
 ついで皇太子邦良親王薨ぜられ幕府皇位に容喙して量仁親王を皇太子とするやいよいよ御逆鱗あり穏やかに兵を集めらる。然るに元弘元年四月陰謀表れ同年八月神璽宝釼を奉じて笠置山へ遷幸せられ、楠木正成等を御召しあがりしが陷落の後、有王山にてついに賊軍の襲う所となり六波羅へ入らせ給う。

ロ、隠岐への御遷幸
 北条高時は承久の乱にしたがい天皇を隠岐に尊良親王を土佐に尊證法親王を讃岐に流し奉った。元弘二年三月七日、花の都を後に京中の貴賎男女、一天萬乗の君の御幸を泣悲しめる中をお供の一條頭太夫行房、六條少将忠顕、御介錯に三位の御局大納言典待小宰相、召使金吾、雑色成田小三郎、瓊子内親王(御年十六歳尊良親王の弟第二十七の皇女為子の方の御腹)等と佐々木判官清高の五百騎に警固されつつ御出発になった。
 ういにかく沈みはつべき報いあらば
     上なき身とは何生まれけむ
 とは当時の御製である。
 山陽道を播磨の伊丹、今宿、美作の杉坂、院庄、三日月中山を経て伯耆日野郡に入り大山を仰ぎ給う。それより車尾の深田に暫し御止まりありしとも言い、安来の港より御出立の後十三日目に美保の関に御着あり波風の静まるを待って十余日御止まりあり。四月二日隠岐島後の国分寺に入らせ給う。

ハ、隠岐の御所
 斯かりし程に大塔の宮の御令旨を伝えて勤皇の軍諸国に起こり楠木正成は赤坂に千劒に賊軍を悩まし、赤松則村、土居、得能等も勤皇の旗をあげ天下の形勢は変わらんとした。
 伯耆大山寺には源盛あり、鰐淵寺には頼源あり共に令旨を受けて頼源は度々隠岐へ渡り主上に近き奉った。元弘二年八月十九日出雲鰐淵寺に願文を奉つられたのもこの時である。また、警固の武士の中元弘三年二月頃より勤皇に心を寄するものが表れ、長年の弟悪四郎泰長のごときは兄長高の頼るべきを説き出雲塩谷高貞に使したが高貞は肯んぜすこれを歸さなかった。

ニ、伯耆御潜幸
 元弘三年閏二月二十四日未明、天皇はにわかに三位の局の女房の御産近付きたるを、これを看給う為三位の局民家に御出かけと称して輿に天皇を隠し奉り御所を御出ましになった。
 正午頃に産所まで参り一條行房、三位局は止まり、それより五十町船津へ、一田夫の好意により馬にて、また船にて千振の港へ夕八時頃御着あり、商船に御座ありて二十五日出雲野波の港。二十六日沙汰浦(江角)。二十七日杵築浦に御着ありしが、千家忠孝反対あり。逃れて追風に乗じて西し二十八日伯耆片見浦に御着ありしが現在御幸川返り岩の伝説あるごとくここより引き返され、追っ手の船も巧みに逃れて伯耆大坂の港に午前十時頃御着ある。御着船處は種々の説あれど略す。

ホ、名和氏の奉迎
 名和氏は村上天皇の皇子具平親王に出て但馬より伯耆長田の庄へ来り父行高は名和の庄に移り名和を姓とする豪族であった。
 天皇は成田小三郎を以って勅使とし、二里許西、名和邸へ十二時着、詳さに勅定を伝うれば長高直ちに拜受、即刻二十騎許にて御船の上に主上を迎え奉る。
 それより馬に御乗せ奉り船上山へ二里許進みしが午后四時頃に至り御疲れの為娚長重背に荒薦を巻きて負い参らす。船上山下岩屋谷まで二里許り飛ぶ如く走り、それより各帯を解きて木を伐り主上を輿に乗せ奉って西坂を半時にして登り船上山の智積寺本堂に入御し奉り九重の宮になずらう。

ヘ、船上山合戦
 佐々木清高は二千余騎をもって小波に、能登守清秋は八百余騎にて赤碕に上陸、一度萱見畑に集まり清高は二千余騎にて東坂に、清秋は千三百余騎にて西坂に、閏二月二十九日明け方を以って押し寄せて来た。船上山は賊軍討滅の大本営となった。長高の藏米五千石は今字一斗六升と称する方面より山上に運ばれ家財宝は焼き払われ長高は建武中興の成否は問題でない一途に大義のために背水の陣を敷いたのである。
 この時天皇は御年四十六歳に亘らせられ長高は五十四歳、清高は三十九歳であった。
 戦は西坂から始まり、源盛、助高、信貞、實行、忠秀等名和の一族と大山寺の衆徒二十七八人をもって遂に敵軍を潰走せしめた。東坂の戦は次子基長始め三十余人をもって防いだが雲霞の如き大軍を引き受けて難戦した。天皇一字金輪供をもって三所権現に祈り給うに依りたちまち雷鳴大雨あり敵軍谷底に落ちて死者数を知らず遂に清高は赤碕より海上を敦賀に逃げ六波羅に至り後、近江国番場寺にて割腹して果てた。

ト、船上山朝廷
 三月三日には曲水の宴あり、長年の名を賜い従四位の下伯耆守に任ぜらる。船上山の御稜威は四方に輝き山下三里四方の間に二千余騎の兵集まり、小波、中山、小鴨等の城も順次平ぐ。
 三月十三日、六條忠顯を将として六波羅征討に向かう。
 三月十五日、長年を召し叡感を伝えられ帆懸船紋とよるべも波の御製を賜う。七日間金輪供を修せらる。
 五月七日、六波羅陷り。
 五月十二日、その報船上山に達す。
 五月十七日、京都では伯洲より宣旨到来して関白藤原冬教は罷めらる。
 五月二十三日、天皇は易筮を立てられ「師上六」と言う吉占を得られ、いよいよ船上山を御立ちになり因幡、播磨兵庫を経て六月五日京都二條の皇居へ御還幸になり建武中興の達成を見たのである。

三、名勝略記
 船上山橋−橋脚五十尺、東伯第一の高橋。
 大鳥居−慶應三年建立。
 史蹟船上山之碑−昭和十一年十月名和長憲男爵の建立。
 茶園原−緩やかな高原古戦場にして銀明水あり。
 かご立場−昔この處より籠を立つ。
 屏風岩−五六百米の断崖を繞らせる所屏風を立てたる如し。
 猿坂−東坂とも言う。
 怒岩−楠木丸の伝説ある地。
 山毛襷林−山上一帯に亘り高山植物茂る。
 秩父宮殿下スキー場−大正十四年御辷りになりたる所。
 薄ヶ原−約六百米の平坦な高原、遠く七ヶ岡の山々を望む。
 行宮碑−大正十三年県教育会建立。高さ一丈八尺。閑院宮殿下の御染筆。
 千丈瀧覗き−巌頭に立って雄大な自然美を眺む。高松宮殿下御立。
 千丈瀧−雌雄二瀧あり。高さ五十米と六十米。紅葉美なり。
 一の木戸−昔の寺門の趾。長年の一夜堀あり。
 寺坊趾−十四五ヶ所の寺趾あり。
 文保臺石−文保二年元弘より二十年前の石。
 船上神社−
 船上山碑−安政四年廣瀬旭窓撰。
 大杉−目通り周十八尺。
 智積寺本坊後趾−方二十間の寺趾にして後醍醐天皇八十四日間行在所参考地たり。智積地大乗坊の趾と思わる。
 奥の院−昔熊野権現と称せしもの。
 天皇屋敷−山上一里余りにして平坦なる地あり。
 中国アルプス−縦走路は豪壮雄大浩然の氣を養うに足る。

第二節  旧 趾

一、太千寺跡
 竹内の西方、勝田川を渡りて六町余、字平場にあり。天慶天暦の頃(約七百余年前)赤衣上人の徳化行われて船上山上、山下五十二坊ありしと言う頃の寺趾であろうと言われる。
 文政九年五月(紀元二四八六年、一〇九年前)清藏なる者本寺跡より誕生佛を掘り出し後、また馬の鐙をも掘り出した。昭和十年に至り本寺跡より多数の土偶が発見された。これは平安末期の佛教全盛時代に一種遊戯的の気分も交わって大を好み多を欲して、何々供養として一萬ニ萬と造り、これを寺院の境内に埋めたことが史上に明らかであって、本県ではこの寺趾だけではないかと言われており、近頃価値を認められて、村びとに依り金網を張って遺物の保存を講じて居る。

二、高木城趾
 大佛山は大字宮木の西方の山にして、その昔(應永年中)宮木池田家の十二代高木多良左衛門の時、備前国池田定久(知行三千五百石)当村に来り多良左衛門と議り当山上に築城したるが本城である。その後、永享の頃、合戦利なく退城、高木家に隠居した。また伯耆民談記には高木城には真道成佛居住と記す。

三、山川城趾と大門
 年代は不明なるが、往古紀伊熊野三社を当山川に勸請せり。元来当地は東西北の三方は大川にして南は深山幽谷かって人跡とてなく最も清浄の地なるを賞嘆し神明の高徳を祈るに適せりと言う。以来天狗あるいは狼、鳥類等種々奇異なる現象が顕れたのでここに諸方より修驗者武術修業の徒の来集多く一の霊場となる。この時、北方の入口に大門を構えて悪逆汚穢の徒の入り来るを警め、また柴尾山の峰に物見楼を建てて四方を警戒したと言われる。その後、戦乱打続き神主も社僧も戦に参加し僅かの婦女子をもって守られたと言う。 伯耆民談記には山川城には下津豊後守居住とあり。
 今東方の切り立てた様な谷を釣瓶谷と称しているが昔山頂に釣瓶をもって、矢筈川の水を汲み上げたるよりかく称すると。

四、細木原城趾
 伯耆民談記に記する所の細木原の城は以西村にあり。勝田川をさかのぼりて勝田山下に至り西方より加わる支流の鱒返しと称する地よりやや下流にミサキ原細谷等の字ありてやや平坦なる高台あり、これがいわゆる細木原の城なりと池山祀衛氏は語れり。

五、寺の條
 大門橋の南方に寺の條、寺の地等古趾あり。往古船上山の僧徒の冬季間厳寒を避けて下山せしものの寺趾なり。船上山には一つの墓もなし皆病を得れば下りてこの地にて死す。墓地多し。
 神仏混淆神宮地として大庫裡ありしものが兵火のために焼き払われたもので焼けたる石礎累々として出てくる。四十余年前、大熊高力鐡蔵氏は自家の田より金属製の茶鑵、鑵須、壷を掘り出したるが今も保存すと言う。

六、天皇水
 大熊部落内、船上山道、三本杉道の別れる地点の道傍にあり。伝説によればその昔、後醍醐帝船上山より御下山の途中、この大熊まで御出になった時、帝は御咽が御渇きになり、家来に水を御求めになったが、あいにくこの村には井戸が一つもなく、遠く谷川まで行かねばならなかった。帝は村人や家来の心配を察せられて、傍の岩を指して、「心配しなくてもよい。この岩を起こせばかならず浄い水がでるであろう。」と仰せられ、力の強いものを御求めになった。その時、この村の一人がこの岩を起こすと不思議にもその下より美しい水がこんこんと湧き出た。天皇は非常にお喜びになり、その者に「強力」の名を下された。その後、いつの代にか「強力」が「高力」に変わり現在では全村高力を姓とし、その処よりは酷暑の候も涸れる事なく今なお清水湧き出て、村の人はこの川を神川と呼んで、お正月には七五三縄が張られる。

七、池田家
 元祖高木九兵衛、寛仁年中、汗八郡下の郷よりこの地に移住し来り、田畑を多く開墾し遂に一村を興し姓氏高木をもって字となし、現在まで三十三代を経る旧家である。
 七代高木太良左衛門は名和長年の妹タキヲを娶り、八代高木三良兵衛の時、名和氏より急報に接し一族郎党を使役して自家倉禀中の糧米を山上に運ばしめ、帝の行在に在らせられし時、常に長年と共に供奉せしがにわかに三良兵衛宅へ臨御せられ午后雨天のため、御駐輦、翌朝侍従の公卿より三良兵衛を召さし、この日都へ御還幸とて帝の御立寄賜いし吉例に御告ありて御宸筆の御色紙並びに御手持品なる御扇子、御茶壷を賜い、また侍従の公卿よりも、御短冊を賜う。これを当家の宝として保存され、またこの頃の遺物とて長年の妹タキオの嫁入の際用いし袋なりとて菊桐の御紋入の錦にて作れる品もある。
 十二代高木多良左衛門の時、應永年中備前国池田定久当村へ来り多良左衛門に議り西方大佛山に城を築き居住す。永享の頃合戦利なく主従十三人多良左衛門宅へ隠匿して時運を待つこと数年、多良左衛門の一女伊久能に婿養子となる。これが十三代の祖にして以後、家姓を池田と改む。
 通門は三代高木重郎兵衛の時の建立と見られこの時代を寛治、嘉保の年代とせば八百余年前の建築物であり、家宅も百余年前の建立なりと言わる。

八、船上山史蹟保存会
 船上山の史蹟を保存発揚するの主旨のもとに昭和五年二月本部を東京市名和男爵邸に、支部を以西村役場に設置さる。
 会員は功労者を名誉会員に、千円以上出資者を特別会員に、百円以上を正会員に、拾円以上を通常会員に拾円未満を賛助会員に分かち募集す。
   役員としては
    会 長  正三位男爵 名和長憲       幹事  上中山村長外十名
    幹事長  以西村長  中井猶蔵       顧問  公爵 徳川家達外貴顯 壹百余名
   事業としては
  一、船上神社を修復増築する事         一、船上山智積寺外十三坊に石標を建つ
  一、高岡より船上神社に至る四粁の道路改修   一、千丈瀧より水道を布設す
  一、御休み場に休憩所を建築す
 等である。



第十一章 神社仏閣

第一節  神 社

一、大森神社(大字竹内字大森鎮座)
祭神 句々廼馳命、素盞鳴命、速玉男命
由緒 創立年代は不詳であるが、棟札に延寶八年(紀元2340年、255年前徳川綱吉の時)九月再興、元文三年再興等とある。旧名は大森大明神と称し往古よりこの郷南以西六ヶ村北以西六ヶ村の総産土神であり、また八橋城主津田氏の祈願所でもあった。文化十三年津田氏より幕二張、小丸燈一対、墓張二対、社務用の馬乗燈二張寄付せられた。
 後嘉永二年七月北以西六ヶ村は御分霊を顴請して新社を建てて氏子を離れた。明治維新に至りこの際大森神社と改称なし、社格を村社に列す。大正十二年一月二十日、以西村大字竹内字金屋鎮座無格社金屋神社祭神素盞鳴命。同村大字宮木字宮谷鎮座無格社宮谷神社祭神速男命。同村鎮座無格社、高木神社祭神素盞鳴命の三社を合併す。
 大正十二年二月十一日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
  例祭日   十月九日
  境内坪数 四百五十坪
  氏子戸数 百六十戸

二、大熊神社(大字高岡字熊ノ原鎮座)
祭神 素盞鳴命
由緒 この大熊村は往古山川村熊野権現の氏子であったが、その中間を流れる矢筈川があるため、常々の社参りに支障しばしばなることがあったと言うので、字熊の原に霊岩を設けて、傍らに椋の樹を植えて磐境神籬となし崇拝してきたが、寛政の頃なりしと言う。
 天変打続き、それに加えて疫病の悩みあり。村民痛くこれを憂い彼の霊岩の側に石の小祠を造り、三宝荒神と崇め祭り産土神となしたりと言う。これが本神社の始めなり。明治初年大熊神社と改称せられ明治七年社殿新築され、大正十年維持方確立し、拜殿幣殿共新築されたり。彼の椋の木は今や五、六百年を経たりと言われ、霊木として今なお社頭にそびゆ椋樹は高さ三十米、遠く成美方面よりも望見せられ目通りの周九米八に及び枝下八米二の大木たり。中途十米余りの所枝は分かれて二又となり棕梠の大木寄生し天然記念物としても指定せらるるに十分である。
  例祭日 十月十九日
  建造物 社殿、拝殿、幣殿、参籠所
  境内坪数 百三十八坪
  崇敬者戸数 三十戸

三、國實神社(大字高岡字國實鎮座)
祭神 國狭槌命
由緒 創立年代不詳、往古より大森神社の攝社であって、昔は八王子権現と称す。明治維新の際、國實神社と改称す。
  例祭日 十月十九日
  建造物 本殿、神楽殿
  境内坪数 二百四十坪
  崇敬者戸数 三十戸

四、柴尾神社(大字山川字柴尾鎮座)
祭神 伊弉諾命、伊弉冊命、速玉男命、事解男命、倉稲魂神、素盞鳴命
由緒 創立年代は余程古く東伯で第三位と称せらる。享保十一年(2386年)五月一日再興するとある。往古より小社ありしが、白鳳年度宮代山の頂に社殿を建立し、御祖二柱神を鎮祭し、熊野宮、又は熊野権現と称した。神徳霊妙にして衆庶の信仰厚く武将の改築造営もしばしば行われたと言われる。元弘の世主上船上山に行在の際御親ら御玉一個御製色紙奉納あり。またしばしば金輪法を修し給い戦勝を祈願されたと言う。
 永禄の世に兵燹に罹り社殿炎上、宝物等焼失せり。その後、宮代山の山腹に社殿を建立せり。なお旧藩主松平相模守及び池田亀五郎候の母の崇敬厚く亀五郎候御誕生の折、禁制札の建設あり。明治維新の際、柴尾神社と改称され、村社の格に列す。大正七年秋、風水害のため山地崩壊社殿破損せし為、同七年社地拡張と共に社殿の改築をなす。続いて大正十一年一月八日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。また当社は安産の神として遠近婦女の崇敬者多し。
  例祭日 十一月二十九日
  建造物 本殿、幣殿、拝殿、参籠所
  境内坪数 五百二十四坪
  氏子戸数 五十戸

五、船上神社(大字山川字船上山鎮座)
祭神 伊弉郡美命、速玉男命、事解男命
由緒 智積寺縁起によれば当山は智積仙人の創むる所にして元明帝の時赤衣上人寺を建て智照権現の祠を建てて神佛両部の守護地としたりと、燈籠台石の文保二年と刻せる約六百二十年前のものあり、降って元弘三年二月後醍醐帝を船上山に奉ずるや、帝親ら祠に戦勝を祈らせ給いしに神感空しからず、たちまち雷電風雨起こり晦瞑咒尺を辨ぜず。官軍この機に乗じ大いに賊軍を破り宸襟を安んじ奉ったのは、名和氏の誠忠に依るといえども実は神の冥祐に外ならざるにより、帝中興成るの後社殿を荘麗にし邑地をも賜りしに後天文十三年土匪此山に據り壮麗なる社殿は兵燹にかかり、大いに荒廃せんとせしに天文二十二年佐々木民部小輔晴久これを修理し更に知行六百石を附せり。後亦衰微せしが、慶長十八年佐々木肥前守輝久の特志によりて修復を加えたり。
 寛永七年池田光仲に至りて邑地四石七斗八升七合を獻じ、社殿を修理せしをもって僅少に廃頽を免がるるを得たり。
 明治十一年に至り神佛判然令ありしかば梵鐘等は竹内法蔵院に移し改祭して純なる神山となし同年山上は船上神社と改称せられたり。また当社の西南に奥宮と称ふる小祠あり。後醍醐天皇と大山祇命を祈れると言う。
 例祭日 三月二十三日、六月二十三日
 建造物 本殿、拝殿
 境内坪数 六千五百坪
 崇敬者戸数 三百戸

六、大父神社(大字大父字宮ノ谷鎮座)
祭神 宇迦之御魂命
由緒 年代不明、棟札によれば寛永七年四月奉建立と記せるもの有り。昔は毎年二月初の卯の日に祈年祭を行う。近世二月九日を定例となす。また田植祭とて毎年五月五日に神事を奉仕す。明治維新前までは産土神稲荷大明神と称したが、明治元年十一月大父神社と改称し村社に列せらる。昭和三年三月二十八日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
 例祭日 十月二十日
 建造物 本殿、参籠所
 境内坪数 三百二十一坪
 氏子戸数 六十戸

七、木地神社(大字大父字木地林鎮座)
祭神 大山祇命
由緒 創立年月不詳、明治維新の際本村、村社大父神社に合併せしを明治十ニ年十一月許可を得て復旧す。
 例祭日 十月九日
 建造物 本殿、神楽殿
 境内坪数 二十七坪
氏子戸数 十三戸

八、足王様(以西村大字大父字美濃海山鎮座)
祭神 足王神
由緒 慶應元年、今の小椋重朗氏五代前の清兵衛なる人、作洲、須賀平鎮座なる足王大明神の御分霊を御迎え奉って本美濃海山に社建造祭神としたのが本社の始にして以後一回社殿の修理をなし現在となる。本神は足及び手の神様として霊験名高く遠所よりの参拝も多数あり。

九、山の神様(大字山川字おいこ谷鎮座)
祭神 大山祗命
由緒 創立年代明らかならざるも約三百年前村中にして山の神様として、何処よりか御迎えし以来、木地屋の神として御祭す。明治の終わりに改建し、昭和二年修理を加える

十、荒神様(字金屋)
祭神は荒神様にして、村民の信仰により赤碕町より御迎えし、昭和四年修繕をなして村の守護神となす。

第二節  仏 閣

一、大梁山清元院   宮木字苅山在寺
 宗派――曹洞宗   退休寺末
 本尊――釈迦如来
 開山――退清和尚
 開基――法華院經翁宗清大居士
由緒 明応元年(四百四十年前)周榮なるもの信徒と協力し、宮木村池田氏十三代目、法華院の尽力にて法地を願立し、本寺退休寺山内西來院三代目の住僧退清和尚を請し、遂に法地となす。因って開山を退清和尚とし、開基を池田氏とす。
 境 内――五百拾八坪
 壇信徒――壇徒戸数壱百拾弐戸、壇徒員数三十八人。
歴代住職――――
 一世 無塵良清 | 八世  天瑞玄見    | 十三世 大藏月珊
 二世 越泉元澄 | 九世  星瑞見翁    | (昭和二年死去)
 三世 東巌素泰 | 十世  大興雉龍    | 十四世 磁江憲雄
 四世 鐡世妙國 | 十一世 *濂克*   | (大正十三年死去)
 五世 即門霊樹 | (大正八年死去)    | 十五世 井上禅之
 六世 清山長隨 | 十二世 金毛禅*   |(大正十五年成美村
 七世 辨龍妙   |(岩井金毛大正十五年 |    常榮寺ヨリ轉住)
                        死去)|

二、船上山智積寺 大字竹内
 宗派 天台宗 大雲院末。
 往古、本寺は船上山に在り。智積上人船上山の幽邃を選みて修驗道場とせしが、元明帝の時赤衣上人智積上人の跡を慕いて道場を草創し、智照権現の祠を建て、本地地蔵菩薩(享禄三年作)、左の脇立11面観音(享禄四年作)、右の脇立毘沙門天(享禄四年作)を祀る。三尊一字に社棟を構えしかば三所権現とも称す。
 村上天皇の天慶、天暦(1598年〜1616年)の頃には山上、上下には52坊ありと言う。これら多数の寺坊を総称して智積寺とよび世に霊山と聞こえたり。
 元弘に至り後醍醐天皇の行幸のみぎり、当村の本坊をもって行在所と定めたまい。天皇御還幸せられるや勅して本山の祠堂を荘嚴にし邑を賜れた。
 戦国乱離の世となりて寺勢次第に萎靡して振るわず。後尼子晴久大いにこれを修理し寺領を加え、後また、羽衣石南條氏の修覆寄進等の事ありしかど、その後寺領没収の厄にあい僧坊の活路も乏しく漸次山上の六坊も頽廃にまかす。然るにただ一人大乗坊良晴竹内に草庵を結び船上山を守護す。寛永七年池田光政公初穂米四石七斗八升を社領とす。後文化2年竹内船上山智積寺を法蔵院と號す様改む。明治11年4月神佛判然の令下るに及び佛體佛具を廃棄せんとせるを竹内戸長村上友次郎氏(天保六年生)多数の村民を糾合して山上に至り一切を奪って法蔵院へ安置す。当時引下したる梵鐘は貞和3年の銘あり、六百年前のものにして因幡網代寺にある正平15年作のものより古鐘である。
 村上友次郎氏は度々刀を帯し追いはぎ等の危険を冒して鳥取に出で県令に願って智積寺保存を講じたので大正8年8月法蔵院は旧名をいつで船上山智積寺と改む。
 次に世代住職を列記すれば
初代 権大僧都律師廣祐               | 八世  明瞭ならず
二世 当中興開山辧海法院    八ヶ年在住  | 九世  明瞭ならず
三世 前智積院仙海大和尚位 三十八年間在住 | 十世 井上禅定師 明治九年来住
四世 智積院権律師恵海印              |十一世 金山久清師 明治十一年九月拝任
五世 洞 貫 法 印     十九年間在任    |十二世 中野光哲師 明治二十八年ヨリ三ヶ年
六世 静   澄      三十余年間在任     |十三世 高田光純師 大正五年来任
七世 権大僧都敬田大和尚  三十余年間在任 |十四世 牧野光泉師 大正八年(現在)

智積寺遺物
一、三所権現仏像並体内記
二、智積寺梵鐘 貞和三年の銘あり。六百年前のものなり。
三、船上山智積寺略縁記

第三節  宗 教

 本村における宗教は曹洞禅宗がその大多数とし、黒住教これに次ぐ。
 曹洞宗は僧道元宋より伝えたるものにて本山は越前永平寺であり、本村としては清元院である。

   部落 \ 宗別   曹洞宗 天台宗 黒住教 その他
竹  内 27 - -
金  屋 27 - - -
宮  木 25 - (神職)1
大  熊 26 - -
國  實 27 - - -
山  川 35 - (神職)2
大  父 32 - - -
山川木地 - -
大父木地 10 - -
平田ヶ平 - - -
合  計 227 14




第十二章 堂庵・古事・伝説

第一節 堂 庵

 本村の堂を見ると大父に観音堂、國實に観音堂、大熊に観音堂、竹内に観音、阿弥陀堂の四堂が現存している。
一、大父観音堂
 文化十一年三月十八日、村中にて建立され、明治三十五年頃修理され観世音菩薩、弘法大師の二体が安置されている。
二、國實観音堂
 創立年代不詳にして、その後明治三十一年彩色、修繕。大正十二年六月改築されており、正観音、子安観音、弘法大師、その外正観音の両側にも観音菩薩として祀られる二体の立像あり、以上五体が安置されている。今は板張りであるが、以前は畳を敷きたる事が明治三十一年の畳寄付により知れる。
三、大熊観音堂
 創立年代不明、堂には正観世音菩薩、馬頭観世音、六十四番弘法大師が安置され、春秋彼岸の中日には念仏を唱えつつ大ジュズを千回まわして祈祷するの行事が行われている。
四、竹内観音、阿弥陀堂
 観世音菩薩と阿弥陀如来を安置す。創立年代不明なるも、その昔、堂は今の青年会場の場所にありたりしと言うが、観世音奉祀を禁ぜられし年(三十六年前)寺に移す。為に堂は不要になり売却された。その後許されて昭和十年青年会場の上に堂を建立し、昭和十一年春、剥落破損したる観音像を彩色して安置した。

第二節 古事・伝説

一、以西村小字名
大字竹内字調―――
長野   |千防   |畑田    |坂ノ前   |屋敷      |渡り上
中峰   |下千防 |森ノ上   |橋詰    |下ハン田   |平塚
下高野 |上千防 |馬場    |堂ノ上   |高野     |上平塚
高野   |中瀬   |森西    |屋敷上通 |コシマヱ   |中平塚
前野   |才ノ木  |駄道端  |屋敷田   |清附      |前平塚
狐谷   |上太田 |弥藏    |廣田    |坂ノ下     |向河原
奈類林 |下太田 |前河原  |徳長    |野畑      |下平塚
上狼落 |西太田 |曽利    |中河原   |鎌田      |塔五輪
平谷東平|腰廻  |上河原  |五反田河原|松ノ木    |大田和
平    |河原   |榎河原  |西丹原   |栗坪     |登宇五輪
山坂ノ上|太田和前|出口河原|東丹原   |治郎兵衛田 |仏隈
向坂ノ上|越前   |河原田  |左衛門橋  |上ハン田   |中平
小松   |西田井 |下平    |土井ノ上  |清水エゴ   |上大道ノ東前野
中狼落 |森ノ北  |中田    |中平     |前河原     |アブ坂
下狼落 |大田井手|屋敷   |上平     |中河原     |長谷
袋尻   |寺前   |細田    |上河原   |鳴夕谷    |下大道ノ東前野
新林   |北川   |谷口    |上丹原   |上山口    |長谷詰
紺屋田 |寺ノ東 |下河原 |西山   |大道ノ東中道谷頭

大字宮木字調―――
勝躰谷   |三反田 |中河原
上細見谷 |大窪田 |下山根
坂ノ谷    |屋敷   |向河原
細見谷頭 |大工田 |上河原
西細見   |曽利   |上山根
細見谷   |横枕   |カミ山ノ谷
勝躰谷頭 |榎田   |下山
蔦ケ平   |中屋敷 |下郷戸
道ノ下    |五輪田 |上郷戸
高畦     |土居ノ上|潰口
寺坂ノ下  |小田   |佐奈志垣
苅山     |小五郎 |

大字高岡字調―――
鍋坂   |大棚   |宮分
上大谷 |水谷   |観音免
金屋谷 |樋口   |南田
乳母谷 |中河原  |西屋敷
下大谷 |宮ノ東  |伊津尻
山ノ下 |古宮河原|上高柳
深田  |樫ケ田  |下高柳
平田  |熊田   |下河原
西高岡 |たつけ  |瀧ノ下
東高岡 |畑ケ田 |松原
門田   |杉ノ木  |河原駄道ノ下
東屋敷 |家ノ前  |河原駄道ノ上
小谷口 |薬師ノ東|釈伽平駄道南
下鍋坂 |西薬師 |釈伽平
中鍋坂 |中屋敷 |雲舞(熊野前ノ伝)
上鍋坂 |西雲舞 |西ノ瀧
上河原 |棚河原 |半田

大字大父字調―――
長楽寺   |大角豆畑|清水河原       |木地林三| 大山家
岡田     |坂ノ谷  |下清水         |波布河原| 御用ヶ平ル
棚河原   |カイチ   |ヌルモト        |曽利    | 三ノ谷
下河原   |古宮   |ヒン谷          |東谷    | さんしょだき
坊主田   |西谷   |瀧ノ前          |下海中  | ヤハス山
下林     |澤ズイ  |小坂ノ下        |海中    |
木ノ谷   |中河原  |中美濃海       |前田
林ノ前   |カネヤス |美濃海         |上海中
河原田   |水谷   |上美濃海       |山根田平
壱本椎ノ木|麻附場  |下平田ケ平ル    |山根田
餅田     |前畑   |飯林          |澤ノ上
大代垣   |屋敷   |平田ケ平ル一    |下御用
森谷     |古庄谷  |西平田ケ平ル    |木地林二
神田     |宮ノ前  |中平田ケ平ル    |木地林一
弥五郎田 |宮ノ谷  |平田ケ平ル向    |御用河原
流田     |竿     |上平田ケ平ル    |虻岩河原
梅ノ木    |坪根田  |西平田ケ平ル堤ノ下|河原奥
駄尾田   |入嶋口  |平田ケ平ル二     |ヒシヤケ

大字山川字調―――
寺ノ條  |前河原   |荒堀        | ススケ畑西平
寺地   |西畑     |西大杉      | 岸ノ下西平通
前村   |檜原     |炭原其一其二 |  牛巻谷
西條面  |五郎丸   |中野平      | あわき谷
川尾   |上毛     |ススケ畑    | 助七谷
西中村  |棚田     |精進川      | 別所原
上中村谷|前棚田   |新田ケ平其一其二 | 釈伽平上林平
中村   |中馬場   |こいこ谷      | 釈伽平ル平ラ
東山根  |別所河原  |おいこ谷     | 釈伽平ノ上
尺善   |上馬場   |鳴子谷平     | 堅道ノ東
東山之下|東馬場   |大谷河原     | 釈伽平ル上林
柴尾   |下奥田   |勝田川頭東平  | 釈伽平小道之東
東屋敷  |奥田其一其二|船上山ヨリ勝田ケ山| 西之畑平
西屋敷  |水谷     |船上山      | 川尾ノ平
外垣   |水谷頭   |勝田川頭西平 | 中坂ノ下
東海中  |桂谷     |精進川辺り    | 釈伽平ル東林
西海中  |大杉谷   |精進川西平   | 釈伽平下西林
釈伽平ル平ノ下

二、発掘物について
 本村で発掘した主なる物をあげてみると、@より土偶及び鐙、誕生佛を掘り出したことは前述の通りAより村上啓吉氏陶器及び鐙を掘り出しBより鍛治川源吉氏簇を発掘しCより川上雄美氏石斧及び簇を発掘Dより高力鉄蔵氏茶鑵壷等をEより前田重太郎氏鐙をFより生住民族の土器を橋田次太郎氏が発掘Gより以西林生徒土器を発掘した。

三、伝説について
(イ)千坊の伝説
 竹内村北方丘山に字千坊、上千坊、下千坊と称する地がある。この地は船上山大寺坊に最後まで留まった僧侶達がいよいよ解散することとなり、遠く船上山を望み得るこの丘で千部経を読誦したる悲壮な別れの地である。仏体の一つは法蔵院(一つは赤碕逗月山福寿院へ後廃寺となりし為赤碕永福寺へ一つは宇田川村永田観音寺へ配り現在保存されている。
(ロ)丹原井出の伝説
 金屋西方に東丹原西丹原等の小字がある。この丹原井出の堰は年々水害の為に破壊して下以西村の人々は水利の上に非常に困った。或る年、遠く海辺の方から人夫がきて工事をしていたが誰言うとなく人柱を埋めれば流れぬと言っていると丹波の国からきたという足の悪い乞食の父が自分が立つといって人柱になった。乞食の母と子は今の大鳴谷小鳴谷の方へ泣いて行った。今でもこの井出をつつくと雨が降る。
(ハ)蔦ヶ平曽利
 宮木の蔦ヶ平と曽利とには寺があったものでこの地から木硯を掘り出したことあり。庭石らしきもの多く出るのである。
(ニ)釈迦平の伝説
 大熊西山丘上の小字釈迦平には阿弥陀堂が建っていた。そして七つもの池があって、その底は連続していた。その池には大蛇や大鰻が主として住んでいた。ある年蟹財蔵と言う奉行が来て昼夜兼行で埋めた。その時大蛇の鱗は池山家に五六枚保存されて居る。
(ホ)精進川
 山川西方の精進川は船上山に登る人の手口を濯ぎし川で、これより上を精進した。
(ヘ)公文部
 竹内の西方公文部は村上家が石州の人を頼んで瓦を焼いた所で今でも粘土の出る所が多い。
(ト)古茶鑵
 大父前田重太郎家には古い茶鑵あり。梅に竹が金銀にて象眼を施したる重さ五貫目くらいのものなるが後醍醐天皇から拝賜されたるものと伝う。



第十三章 風俗・習慣

第一節 年中の行事

一、正月元旦の行事
1、門松 ― 松と竹
2、注連飾り ― 入口、出口、神壇、倉庫、竈、井戸、便所、薪小屋、馬屋等すべて張る。裏白、譲葉を注連につける。注連の種類は七五三、七、九一と家によって異なる。
3、供物の様子 ― 橙(葉のついたもの)、柿、壽留女、餅花、一文銭、を連ねたもの、栗、鏡餅、歳コ市には新米二俵へその上に新しい筵を折り重ねて敷き、その上にお膳一切を供える。力餅と称しお蒸し米を茶碗大ににぎり、餅で被ったものも供える。
 又、家によってスルダと言って丸木をその年の月数だけ編んで供える。
 家中の神(康申、春日大明神、天照大神、八幡様、荒神様、氏神様、竈の神様、歳コ神、恵比寿様)等。
 なお当日は氏神様に未明の内に参拝する。
歳コ神へ朝の供え
  わらび、小豆の雑煮、豆、なすの味噌つけ。
同 昼の供え(午前七時〜八時頃)
 煮物(大根、芋、こんぶ、牛蒡、わらび、鰤か鱒)、味噌汁(しじみ貝と福木)、なます、白飯。
二、正月二日の行事
 早朝よりすべて物事の仕初めと言って種々な事を行う。
1、書初め。
2、縫い初め。
3、搗き初め。(臼に玄米を入れて搗く)
4、掃き初め。
5、木綿の糸を紬ぎ初め。
6、鍬初め、五穀成就を願うため、田を三鍬うってそこに卯木、かや、餅、米、幣を立てる。
7、山入り、樫(貸し出すの意)福木(福コを増すの意)しで木(し出すの意)の三種の木を切って家の屋根にすかけておく。
 供え物は一日と同じ。
 親類知人へ年頭廻禮を行う。
三、正月三日の行事
 未明に朝食をとる。供え物は一日と同じ。三日の晩に供え物の雑煮の餅を下げる。そして一供えだけ残しておく。
四、六日の行事
 晩に鳥追いを行う。
 若菜、若魚、大根、栗、わらび、柿、餅を神に供え切板をすりこぎでたたきながら「日本の鳥と唐土の鳥と雀が島に渡らぬ先に七草そろえてぺしとおさえてホーイホーイ。」と呼びつつ鳥を追う。
五、七日の行事
 前夜に用いしものをお粥に炊き神に供え家内一同食う。
六、九日山の神の行事
 神さんのお椀に竹の葉を敷き白飯に大豆を入れて炊いたものを供える。
七、十四日左義長行事
 どんどうさんと称して夕方正月のお飾りを全部取り外し燃やす。その火で、残しておいた餅を焼く。尚これを六月一日までしまっておく。
八、二十日正月の行事
 この日はなます比べと言って最も味のよい膾をつくり、ご飯を山の如く盛り、神に供え、後家族一同それを戴く。
九、二月一日ふて正月行事
 お昼だけ元旦と同じ供え物をする。
十、正月の娯楽
 羽子つき、竹馬
十一、正月の心掛
 正月は縁起のよい事許りを競って一挙一動、一言一句も謹んで行う。
 十二支のその日当る者が家族にあると歳の日と称し金銭の支出を嫌う。
十二、木地部落正月風習
 正月三日までは決して火の種を消さない。三日までの神さんの供え物の煮出しは男の手で行う。そして女が月経になると火を別けると言って別の火で作ったものを庭か馬屋かで食事をさせる。門松を立てない。
 これは木地屋が朝廷の特別な職である理由である。
十三、二月二日荒神講行事
 青年、中年、老年、女組を離れて集合し色々の御馳走を作りて食し、雑談に耽る。
十四、二月四日節分行事
 焼いた煎干の頭を木の枝にさし戸袋に刺す。これを焼ざしと言う。
 山椒の木、榎の木、あさどりの木この三種を燃やして、ごはんを煮る。そして神前に供える。この木を一くべ木と称す。
十五、三月節句の行事
 三月三日雛壇を作りてお雛様を飾る。
 供え物は桃酒、草餅、煎米、卵、芋、芹等。
 初節句の家では殊に御馳走を作りて親類を招きてもてなす。また親類知人より初節句にあたる女の子にお雛様を贈って祝ってやる。
 お雛荒しと言って供えてある御馳走を競って食う風あり。
十六、四月八日行事
 お釈迦さんの誕生日。清元院では甘茶の接待がある。一般家庭では花湯(れんげの花束を入れる)をわかして入る。
十七、五月の節句行事
 五月五日、男の子のある家では、幟、鯉幟を立てる。青葉の間からヒラヒラ風に翩っているのは何となく勇ましい。
 最近では都会の座敷幟が取り入れられて彼の勇ましい大幟の姿が追々に少なくなる。
 儀式としてはちまきを作り神に供える。
 当日の夕方屋根にかや、蓬、菖蒲を束ねて上げる。神にも供える。
十八、代満行事
 五月の田植えが終えたなら各支部によってその折を見計らい村中こぞって業を休む。
十九、六月一日行事
 煮物、汁、なます、汁と四角にして、神に膳を供え、又正月にしまって置いた氷餅を供える。
廿、連花行事
 六月十五日、塩鯖と小麦粉だんごを神に供え家族一同食う。
廿一、盆行事
 七月十三日には半年の取引を終えて佛祭の準備をする中元の進物もする。
 十三日の夜から十六日迄墓に火をともす。
 十三日の夕方には麻がらに点火して、「この灯りでござれ、じいさんもばあさんもこの灯りでござれ。」と歌いながら仏さんを招く。
 十六日の夕方はやはり麻がらに点火して、今度は、「このあかりでいなはれ。」と仏を送る。
 尚自宅の裏に精霊棚を立て、座をこしらへ、
 1、おだんご 2、大豆の木のまま 3、茄子 4、きうり 5、芋 
 6、かけそうめん 7、かざり菓子 8、とうぎみ 9、ささげ等供え物をする。
  茄子ときうりは仏の馬と称し、頭、足、尾をあさがらにてつける。
 十四、十五両日の昼は出来るだけの仏さん料理を作りてお供えする。
 墓参りは十四日の朝早く餅やだんご其の他の御馳走をもってなす。
 十六日には未明の内に仏前の供え物、飾り物を一切流す。素足で川に行き川端より香を焚き仏を送る。じっと川端に立っていると家々の仏の帰る話し声が聞こえると言う。
 盆踊りは月清く圓らかな夜、老若男女の別なく踊りの庭に集い入り乱れて心から歌い心から踊りて深夜に至る。
 しかし今の盆は昔の比較的恵まれない非文化時代の人々の自然的芸術の発露とは余程の差異あると思う。
 踊りは各部落で集いてなす。
 大熊十五日、宮木十四日、山川十六日
 相撲は十四日午後、宮木の清元院にて盛んな大会がある。
廿二、夏祭り
 船上山祭(旧六月二十三日夜)
 竹内の智積寺で祭典があげられる。他村からも多数の参拝人あり。踊りが盛んである。
廿三、八朔(旧八月一日)
 朝早く鳥を追う。火隹をたいてホイホイと追う。この日頃より水田に水を注がないためか川の水を落とす。魚取りを子供は喜々としてやる。
廿四、いものこ誕生(旧八月十五日)
 出来たてのいものこを掘って来て小豆飯と一緒に神に供える。
廿五、秋祭り
 大森神社(十月九日) 大熊神社(十月十九日)
 大父神社(十月二十日) 柴尾神社(十一月二十九日)
 これとてめずらしい行事なし。出来るだけの御馳走を作り親類知人を招きうんと食ってうんと飲む。いわゆる飲み祭り食い祭りである。
廿六、いのこさん行事(旧十月亥の日)
 歳コ神さんが旧二月の亥の日に田畠に出られ五穀成熟を守られる。そして十月の亥の日に帰って来られると言う。
 最初のいのこさんの日には座敷のよこざに新米の俵二俵を並べその上に鏡餅お膳を供える。
 二回目には奥の間の神床にてお迎えする。最近までは子供が多数一団となりて家毎を亥の子餅をつきながら「亥の子餅つかんものは鬼生め、蛇生め、角の生えた子を生め」と歌いながら餅をもらって歩いた。
廿七、こき祝い
 秋の取り入れをすっかり終わり家中のごみを取りてから御馳走をして神に供え、秋中の労を慰める為に手伝いを受けた隣家の人々を呼んで一寸の祝宴を催す。
廿八、宮籠り
 家の幸福を祈るため御馳走を携え宮に籠る。そして夜泊る。
廿九、イツモノ
 若者が集りて酒宴を催す。二日位。時季は秋休み。

第二節 一生から見た行事

一、七夜祝
 生後七日目を七夜といってこの日に命名する。そして祝う。尚赤ちゃんに膳を作りて向かわせる。
二、宮詣り
 男子三十日目、女子三十三日目に行う。里方より送られた晴着を着せて氏神に参拝する。
三、頭だんご
 生まれて数日後の午の日に頭の髪を剃ってやる。その時にいかにも頭が賢くなるようにとて、かたいだんごを作り多くの人に食ってもらうがよいと言うので隣家中配る。
四、ままくい
 百日目に赤飯をたいて赤ちゃんに食わせる。
五、誕生祝
 満一ヶ年の誕生日を祝う。大きな鏡餅を作り子供に負わせて歩かせる。
六、紐落し
 紐を落とした中裁の着物を着せて氏神に参拝する。
七、婚礼
 新郎新婦は三々九度の盃を取交し、その後来会者の酒宴を張る。第二日目は氏神に参拝する。後婿あるき又は嫁あるきを行う。
 第三日目は三日の祝いといって新婦あるいは新婿を主賓として親族知己の人居並び饗応を受ける。若連中が樽入といって祝って行く。これには、婚家より酒肴を出してもてなす。婿、また嫁のみやげといって一般見物人にせんべいを配る。婚家の嫁あるいは婿の方が先に嫁入り婿入りをして嫁あるいは婿をつれて帰る。
 結納は品物なりしも次第に金に変化していく。
八、四十二の祝い
 正月神官に祈祷してもらう程度。
九、還暦の祝い
十、八十八の祝い(米寿の祝い)
十一、九十六の祝い
 九十六歳を祝う
十二、葬儀
 死人があると神棚に紙を張る。
 1、仏前に(北向に寝かせ)一本線香を立てる。
 2、死人の髪を剃り清浄にして白布の着物を着せ逆襟にして納棺。
 3、棺をになうは親戚の人。
 4、喪主は位牌を持つ。
 5、膳は主婦が持つ。
 6、団子は近親の婦人。
 7、行列は、布旗、小旗、棺、棺の綱、会葬者。
 友引三隣亡の日は出棺しない。葬日、二日目念仏会を催す。
 次いで四十九日目に法要を行い片見分けを配る。
十三、法事
 お寺の僧侶を迎え、仏さんを供養する。行事は前日の夜からかけて明くる日の昼食まで朝は赤飯を作りて隣家に配る。
 仏さんに縁のあるものが集まる。たいてい白米二升糯米二升持参する。その上仏前に香料を供える。来会者は昼食の宴を受け墓参り後、寺に参り散会す。

第三節 一般娯楽
 将棋、囲碁、これは上流家庭。農村の事とて、これという娯楽なし。

第四節 方言訛しらべ

標準語 方言 訛 標準語 方言 訛
わたくし、僕 おれ、おっ くれ ごせ
私達 おらち 泣く ほえる、うとぼえる
あなた おまい、わあ あんな あがな
あなた方 おまえらち、わっち、わっちゃ こんな こがな
ほうだま 沢山 えっと、がいに
あご あごた、おとぎめ おおきい がいな、大きやな
着物 きんの かしこい むぜい
朝食 茶をのむ たたく どうずく
休む たばこ そんな そがな
しよ 少しも えっかな
かみなり どんどろけさん 一燃やし 一くべ
おじぎ こごむ 帰ろう いない
だいぶん えっころ、ええころ 出よう じょい
牛の子 べいべこ 有難う ようこそ
無い にゃあ 言わない 言わせん
下さい ごしなはれ、ごいて であろう だらあがな
少し ちいと そうして そがして
こうして こがして おじいさん おじやん、じいさん
痛い いちゃあ 兄さん あんちゃん、あんやさん
しむ しょむ 姉さん あねさん、ねえやん
くらい くりゃあ おとと
変な けつな 他家の嫁さん あねさん
滑稽な人 なまける人 他家の小母さん かくさん
しなさい しなんせい 旧家の老奥さん かみさん
言うそうな ちゅうわい 旧家の若奥さん ごしんぞさん
おい ちょっと よう こら 富豊な家 かってがええ
風邪 がいけ 富豊な家の主人 おやかたさん、旦那さん
おかあさん おかあやん、かあさん 富豊な家の奥さん おごりょんさん
お父さん おとっちゃん、とっさあん 富豊な家の若主人 さかさん
おばあさん おばあやん、ばあさん - -

第五節 住宅坪数調べ

 家屋坪数調べ(昭和十一年度)
部落名 最高 最低 総計 平均 戸数
竹内 59.7坪 4.5坪 1970.8坪 32.3坪 64
宮木 79.0坪 12.6坪 828.3坪 30.8坪 27
高岡 78.4坪 6.8坪 1941.5坪 34.3坪 57
大父 80.2坪 3.9坪 1664.8坪 30.3坪 55
山川 59.4坪 8.0坪 1656.5坪 28.1坪 59

 家屋坪数調べ(昭和十一年度現在)
部落名\ 坪数 80坪以上 70坪以上 60坪以上 50坪以上 40坪以上 30坪以上 20坪以上 10坪以上 10坪以下
竹内 - - - 10 22 18
宮木 - - - 13 -
高岡 - - 10 19 13
大父 - 16 12 13
山川 - - - 16 25 10

第六節 伝染病

 伝染病調べ
病名\年度 昭和五年 六年 七年 八年 九年 十年
腸チブス 患者数 (高岡)2 (大父)1 (竹内)2 (大父)1
死亡数 (大父)1

第七節 貧民救済
 貧民救済者なし。 以西村方面委員 中井 貞造

第八節 生活状態
一、民家の状態(昭和十一年度現在)
 とたん屋 1  枌屋 10  藁屋 121  瓦屋 82 土蔵 134
 養蚕場 72  井戸 84  風呂竈 隣家に風呂入り に歩く 164
二、家屋の方向
 北向 3戸   南向 5戸   西向 130戸   東向 86戸

三、家の紋の種類
紋  名 紋  名 紋  名 紋  名
五三の桐 126 丸に四角 丸に剱片喰 抱茗荷
25 花菱 丸に蔦 二重亀甲に蔭の蔦 16
丸に桔梗 四ツ目 乃ぎ - -
桔梗 12 丸に違鷹の葉 11 蔭の蔦 - -

四、屋号調べ
屋号名 現戸主名 字名 備     考
新屋 川上伝次郎 竹内 以前に新しく分家して出たる家にて新屋と称す
高力藤吉 大熊
前田官市 大父
小椋重三郎 木地
元庄屋 中井貞蔵 竹内 昔庄屋であったため
高力愛蔵 大熊
あめ屋 川上金市 竹内 以前あめ製造販売をしていたため
中井種蔵 金屋
酒屋 中井正巳 竹内 昔酒醸造販売業をしていたため
前田竹雄 大父
田んぼね 石賀政市 竹内 田んぼの真ん中にあったが、今は家が建って村中となった。
高力 大熊
表家 来家敬治 竹内 昔は表の間などある家は無かった。その時、表のある家が建てられたから云う
北側 大下常吉 竹内 村の一番北側にあるから
西の家 小川茂夫 竹内 村の西の方にある家にて
御崎芳蔵 大熊
はんだ 中井林吉 金屋 土地の字名
かまだ 齋尾藤吉 金屋
刈山 入江実蔵 今地
門家(かどね) 中本義太郎 金屋 この家の北の方に氏神の社があった。その時どうしてもこの家の門を通って参拝せしため
紺屋 高力市蔵 大熊 昔紺屋なり
上家(かみね) 高力源蔵 大熊 その家の本家より上の方にあるため
小椋光蔵 山川木地
下家(しもね) 高力虎蔵 大熊 村の下の方にあるため
糀屋 高力常政 大熊 昔糀屋なりしため
岩本彦蔵 國實
立つ子や 福本信蔵 高木 立子から来りし家
谷田 前田 隆 大父 字名?
木地屋 小椋浅治郎 山川木地 木地より来りし家
川床屋 小椋千吉 山川木地 川床より来りし家
前家(まいね) 川上清太郎 國實 村の一番前の方にあるから
上家(うえね) 川上雄美 國實 上の方にある
下家(したね) 川上久治 國實 下の方にある
本家 小椋重朗 木地 木地の本家であるため
別家 小椋万六 木地 本家の分家の二番目に別れたものを別家と言う
中所 椎本柳次 山川 村の中ほどにある
隠居 米田伝市 山川 もと隠居せし家
紙屋 岩本利之吉 國實 昔紙屋なり
上所 牧田哲太郎 金屋 村の上なるため

五、電燈燭光調べ(昭和十一年度現在)
燭光名 単価 燈  数 月金額
十燭光 55銭 194 106 70
20ワット 65 179 26 35
25ワット 75 50 35 70
30ワット 80 40
40ワット 100 00
五燭光(外灯) 40 22 80
- 454 274 95
 付 二家メートル制の設備あり。

六、ラヂオ蓄音機調べ
種別 竹内 宮木 高岡 山川 大父
ラヂオ 13
蓄音機 27




第十四章 教 育

第一節 学校教育

一、教育沿革
 本村学制以前の教育状態を尋ぬるに、寺子屋の設なりたるは他地方のそれを伺うのと略々似たもののようである
 極めて幼稚なるは言を待たざるものにて、したがって記録なく年号等すべて不詳なれども、古老の言をたどりてその一端を知ることが出来る。
 現以西村地域内にては、徳川時代に極簡単なるもの清元院にあり。当時の僧侶、師となりて教授し、生徒は男のみにて約十四、五名ばかり。それらも皆仕事の余暇に時々行く位にて通して出席するものは、裕福な家庭児極少数。その後倉吉在より鷲見美保馬氏来村、大熊に私宅を構え、そこにおいて教授し小学校の生るるすなわち明治の初年頃まで続けり。寺子約三十名余り(男のみ)かくするなか清元院は漸次行く者を減じ、遂に大熊一ヶ所となる。教育法は主として習字、読書、算術を教えたものであるが、教授書は師の直筆のもの多く、すべて草書体にて、その能書きに驚嘆せざるを得ない。読みはいわゆる論語読みにて記憶を主とせるものの如く古老の記憶せる読振を聞くにまるで小僧の経を読むようである。下級児は上級の者に教わり、上級は直接師に教わる有様にてここに個別指導の姿がうかがわれる。
 なお、このように簡単なものであるがその学習作業によって、行儀、作法、修身を訓練することが教育の中心思想であって、結局は人格教育に帰しており、教育が全く精神的に行われ、教師、父兄、師弟の情義的統合の上に行われていたことはその特色である。
 教授書は次の如きものあり。この他に論語、孟子を読むもの極稀に一、二ありたりと。
 当時読まれたものを高力定蔵氏所有、高力浅吉氏、高力善次郎使用の書籍によりこれを挙げて見よう。

 書 名       発行年  現在よりの年数      書 名     発行年  現在よりの年数
八橋郡村附    明治13年  56年前       商売往来     明治11年  58年前
商売往来     弘化3年   90年前       御成敗式目    明治9年   60年前
庭訓往来     文久2年   74年前       自遺往来      文久2年   74年前
風月往来     文久2年   74年前       寺子読書千字文 文久2年   74年前
手本集       万延2年   75年前       天神経       万延2年   75年前
今川制詞     万延2年   75年前       新今川       万延2年   75年前
児童教訓     万延2年   75年前       魚虫木手本集  万延2年   75年前
借用手形手本集 万延2年   75年前       大日本國字づくし万延2年   75年前
集字手本     安政7年   76年前       百姓掟往来    安政7年   76年前
寺子教訓書    安政7年   76年前       諸職往来     安政7年   76年前
合書童子訓    嘉永元年   88年前       因伯郡附    
大日本国盡手本 明治14年              借用證書
腰越状外十一状 明治3年               扁字手本集   明治19年

 その後、明治五年学制発布せられ、明治六年三月二十五日、第十一大區小六區清元院を借受け、これに創設し、今地小学校と名づけ(本校学区は第19番中学校区第177番小学校区なり)遠山聳氏学長となり、ここにおいて教育す。
 降って明治八年四月二十七日聞届大父支校を大父村、表国蔵氏所有の空家に設けり。児童数不詳なるも明治二十一年度において学齢人員男82、女78、現在就学者、男42、女0、卒業生、男6、女0とあるを見る時、なお少数にて軽視されていたかと窺うことが出来る。それに比して現在就学者、男149名、女131名に達せるは、その進歩の著しさを見ることが出来る。
 かつまた、大正八年、補習学校を、大正十五年青年訓練所を設置し(昭和十年七月青年学校とす)教育の實は国民、社会両方面にその實を挙げり。
 次に歴代学長及び校長を記す。

就 任 退 任 学 長 氏 名
第一代 不 詳 不 詳 假学長 遠山 聳
第二代 不 詳 明治7年4月 校 長 吉田修治
第三代 明治16年12月 明治20年5月 林原正蔵
第四代 明治26年1月 明治36年10月 大蔵月珊
第五代 明治36年10月 明治44年4月 前田熊次郎
第六代 明治44年7月 明治44年11月 西田春慶
第七代 明治44年11月 大正8年3月 武信文録
第八代 大正8年3月 大正15年3月 山本鶴一
第九代 大正15年3月 昭和2年3月 岸本秀藏
第十代 昭和2年3月 昭和4年3月 池口邦蔵
第十一代 昭和4年3月 昭和8年8月 佐伯是信
第十二代 昭和8年8月 現 在 松岡貞信

 沿革誌中より主なる記事を次に挙げよう。
明治6年3月   清元院に開校。今地小学校と名づく。
明治8年4月   大父支校を表国蔵氏所有の空家に設く。
明治20年1月  宮木簡易小学校と改称。
明治23年1月  大父簡易小学校創設。
明治26年1月  以西尋常小学校と改称。
明治32年3月  大父分教場許可。本校共に二学級編成。
明治32年8月  本校、分校、新築校舎へ移転。
明治33年10月 本校落成式挙行。
明治35年7月  体操場増築(東西二間南北三間)
明治35年11月 大父分教場職員室及び生徒溜り増築。
明治40年5月  皇太子殿下山陰道御巡幸の際、尾藤武官を勅使として船上山参向あらせらる。
明治41年4月  本校を二学級とす。
明治41年9月  本校増築(縦八間横四間)。分校増築(二間延ばし四坪掛出し)
明治42年4月  分校六学年児童を本校に入学。
明治45年4月  本校を三学級とす。
大正8年4月   教員住宅落成。高等科併置、以西尋常高等小学校と称す。本校四学級とす。農業補習学校新設。
大正11年    校舎建築及び増築(平屋五間に二十間)
大正13年 月  体操場改築。本校を五学級とす。
大正14年3月  校舎増築(五間に十七間)秩父宮殿下船上山御登攀、本校へ御成。本校を六学級とす。
昭和2年4月   本校を七学級とす。
昭和3年11月  名和男爵来校。
昭和4年4月   本校八学級とす。
昭和8年8月   澄宮殿下船上山御登攀、奉迎送す。
昭和10年5月  久邇宮大妃殿下、並東伏見伯御登山、奉迎送す。

第二節 社会教育

一、青年学校
 大正八年十二月一日、農業補習学校男子部を創立し、大正十二年十二月より通年制とし同時に女子部創設。
 昭和十年七月十五日校名及び学則を変更し以西村青年学校と称す。校舎は以西小学校校舎を兼用。現在職員は小学校より兼任。助教諭4名、現在生徒数男43、女23。

一、処女会
 大正十五年四月創立。現在会員40名。
 温順、貞淑、明朗を旨とし、諸種講習会、実用手芸品製作、運動会等自己修養に努め、敬老会を行い、また道路愛護等社会的に活躍せり。
 歴代会長
第一代 自大正15年4月  至昭和 8年3月 池田慇女
第二代 自昭和 8年4月  至昭和 9年3月 山本壽子
第三代 自昭和 9年4月  至昭和10年3月 伊藤静枝
第四代 自昭和11年4月  現 在      牧田喜枝

一、少年団
 昭和九年四月一日創立。団員数192名を有し、部落単位にて十分団に分かち、各分団長、副分団長を置き、団長以下小学校教員、各部落一名宛の指導委員により校外生活を指導し、進んで社会公共の生活に関する訓練を施し、しかして心身を鍛練し健全なる国民の素地を培うと共に学校教育の効果を全からしむるを目的とせり。
 主なる事業を挙げれば
1、皇居遥拝  2、神社参拝及び掃除  3、神佛礼拝、墳墓掃除  4、夜警  5、家庭作業励行
6、道路掃除  7、危険物処理  8、荒地開墾  9、各種共同作業  10、共同訓練及び運動
 役員  団長 松岡貞信  副団長 足立才蔵

一、婦人会
 昭和九年八月二十六日創立。同時に国防婦人会とし会員相互の親睦と円満なる結合を主とし、事業、修養、各方面に旺盛なる活動を為しつつあり。現在会員数173名に及ぶ。
 主なる事業次の如し。
1、講習会  2、講演会  3、会報発行
 役員  会長 松岡貞信 副会長 池田慇女

一、青年団
 大正七年十一月三十日創立。現在会員数52名、各員協力一致、次の事業を行い、一層その實を挙げつつあり。
 事業 1、講習、講演会  2、体育会  3、農産物品評会  4、見学旅行
    5、道路愛護作業  6、一人一研究発表会
 歴代団長名
第一代 自大正7年11月  至大正12年3月 中井猶藏
第二代 自大正12年4月  至大正15年3月 高力幸松
第三代 自大正15年4月  至昭和7年3月 中井正巳
第四代 自昭和7年4月   至昭和9年3月 高力恒雄
第五代 自昭和9年4月   至昭和10年3月 岩本誠雄
第六代 自昭和10年4月  現在       川上福光

一、社会教育委員会
 昭和六年七月、社会教育委員会が設置された。
 委員としては次の12名である。
小椋重朗  橋田次太郎  川上重徳  松岡貞信
足立才蔵  森田寿雄  中井貞造  谷口辰吉
井上禅之  谷本伊勢蔵 小椋新一  高力乕藏
 事業としては
一、婦人会を設立すること        一、宣伝機関として掲示板を設置すること
一、少年団の活動をなさしむること    一、農村民の都市集中を防止すること
一、講演会を開催すること 等である



第十五章 兵  事

第一節 壮丁検査
 壮丁検査による結果は軍部の秘に属するが年々好成績を挙げつつあり。 

年次別壮丁人員
年次 人員 年次 人員
大正3年 11人 昭和7年 16人
大正5年 14人 昭和8年 21人
大正10年 16人 昭和9年 18人
大正15年 15人 昭和10年 31人
昭和6年 12人 昭和11年 20人


第二節 忠魂碑祭神


一、   陸軍歩兵一等兵勲八等功七級  中本富吉
 明治31年12月、鳥取歩兵第四十県隊に入営。33年6月、台湾守備のため、雲林に駐屯。34年7月、満期退営。37年5月、征露の役に従軍。清国盛京省南光角に上陸。これより大狐山、顔家店、回家屯を過ぎ芳水嶺において戦闘し、また、ここにて第四軍に編入され、秀才嶺、祈木城、鞍山店、遼陽、五里台子等数十回の戦闘に殊勲を立て、37年10月12日、三かい石山の夜襲戦に於て敵弾に当りた誉の戦死。戦功により功七級金鵄勲章、勲八等白色桐葉章を賜う。

二、   海軍二等水兵勲八等  石賀林藏
 明治26年12月1日、海軍志願兵として呉海兵団に入団。明治27、8年戦役に軍艦巌島に乗組み従軍戦功により勲八等瑞宝章を賜う。後、水雷隊攻撃部に入り第17號水雷艇に乗組み中、病に罹り呉海軍病院に入院。明治31年3月4日同病院において死亡。

三、   陸軍歩兵二等兵  小椋千蔵
 第10師団歩兵第40連隊に入営し、台湾守備のため雲林に駐屯し、途中台中衛戍病院雲林分院に入院。明治32年9月22日、同院に於て死亡。

四、   陸軍歩兵二等兵  西永作一
 第10師団歩兵第40連隊に入営し、明治37、8年戦役に参加。途中第二関東軍陸軍病院奉天分院に入院し、明治39年7月20日同院に於て死亡。

五、   陸軍砲兵二等兵  小椋房市
 明治37年12月1日、姫路野戦砲兵第10連隊補充大隊第二中隊に入営。同39年2月5日、野戦砲兵第10連隊第6中隊へ編入され同年四月14日、姫路衛戍病院に入院し同年4月25日、同院に於て死亡。


第三節 在郷軍人会

一、在郷軍人会分会長及び事業表
氏  名 就任年月 事     業
第1代 石賀辰吉 明治41年3月 今まで分会長は村長が兼任なりしを分会員より推すこととなる。
明治43年11月帝国在郷軍人会発会さる。
第2代 高力定蔵 明治44年3月
第3代 河上清光 大正4年4月 大正5年11月陸軍大臣大島健一閣下、軍馬補充部本部長中村中将、
船上山登山の際、分会員一同歓迎送
第4代 西田秋光 大正7年3月 陸軍中将堀内文次郎閣下、分会旗に分会名揮毫
第5代 石賀二郎 大正9年3月
第6代 高力定蔵 大正10年3月 大正12年分会基本金造成に着手。翌年1月完成。
(昭和11年現在688.8円)
第7代 前田良實 大正13年2月 大正14年3月7日、秩父宮殿下船上山に御登山。分会員一同奉迎送
第8代 高力信市 大正15年2月 以西小学校講堂に於て招魂祭施行
第9代 岩本恒雄 昭和3年2月 昭和3年御大典記念事業として忠魂碑建設に着手。翌年8月竣工。
昭和5年4月招魂祭施行。
昭和6年12月満州事変出征軍人に慰問品発送
第10代 山本 豊 昭和7年2月 昭和7年4月招魂祭施行。同年5月忠魂碑玉垣設立
第11代 牧田純太郎 昭和7年6月 昭和7年8月兵器献納金を募集し陸軍者に送る。
昭和8年8月16日澄宮殿下船上山に御登山分会員一同奉迎送。
昭和9年11月6日高松宮殿下同妃殿下船上山に御登山会員一同奉迎送。
昭和9年10月東伯郡招魂祭場建設の本村割当額募集し送付。
昭和10年4月東伯郡招魂祭場完成。同月15日招魂祭典執行に付き分会員多数参拝。
昭和10年5月20日久邇宮大妃殿下、東伏見伯爵船上山に御登山。分会員一同奉迎送。
第12代 那須伊勢雄 昭和10年10月
第13代 岩本恒雄 昭和11年2月 昭和11年11月3日勅令により陸軍省令による団体に改まる。




第十六章 政 治

一、村会議員
 明治22年10月市町村制により以西村の第一回の村会議員が選挙せられた。定員8名にして、当時の顔ぶれは次の如くである。
 川上藤次郎(高岡) 谷口重雄(竹内) 小椋為十郎(大父) 御崎萬藏(高岡) 
 前田林三郎(大父) 小椋徳次郎(大父) 那須栄十郎(山川) 中井長次郎(竹内)
昭和4年10月15日の定期改選より村会議員定員が8名より12名に増加した。現在では12名の議員が選任されて村政を議している。

二、区長
 明治24年4月以西村初代の区長が任命された。
 第一区長(竹内) 中井長次郎  第二区長(宮木) 田中喜平  第三区長(高岡) 川上清太郎
 第四区長(大父) 表 虎吉  第五区長(山川) 谷本藤四郎
 後、村政発展せる為、区を多くし現在は10区に区分されている。国実、金屋、大父木地、山川木地、平田ヶ平の5区を増加したのである。

三、学務委員
 明治25年8月第一回の学務委員に次の三氏が任命された。
 小椋為十郎、谷口重雄、大蔵月珊(校長) 以上三氏。

四、助 役
 明治23年2月、以西村に初めて助役を置くようになった。歴代助役を表示すれば次の如くである。

以西村歴代助役表
就任及び退職年月日 氏   名
一代 明治23年2月〜明治32年10月 川上藤次郎
二代 明治32年12月〜明治36年8月 谷口重雄
三代 明治36年10月〜明治37年8月 川上清太郎
四代 明治37年8月〜大正3年2月 永田熊吉
五代 大正4年4月〜大正8年4月 川上萬吉
六代 大正8年6月〜大正12年6月 那須伊勢吉
七代 大正12年10月〜大正13年8月 那須梅吉
八代 大正13年8月〜昭和2年3月 那須政一
九代 昭和2年4月〜昭和9年3月 川上萬吉
十代 昭和9年3月〜昭和11年2月 中井貞蔵
昭和11年3月より欠員中


五、郡会議員
 竹内村、村上啓吉氏は大正4年から大正8年まで以西、成美、安田を代表して東伯郡郡会議員に当選し、一期間務む。その間、竹内、赤碕間を郡道に編入した。

六、県会議員
 大正4年9月、鳥取県会議員選挙に当り、本村大父木地の小椋重朗氏、多数をもって当選し県会議員に選任さる。
 就任期間は大正4年9月より大正8年9月に至る一期間、4ヵ年で、赤碕三本杉線を県道に編入したのはこの時である。因に氏は現在、東伯郡畜産組合長、同木炭組合長に在任さる。

七、各種議員選挙有権者状況
 以西村に於ける衆議院議員、県会議員、村会議員の選挙有権者数を表示すれば次の如くである。

年  度 衆議院議員 県会議員 村会議員 合  計
大正3年度 54 75 140 264
大正7年度 49 71 173 293
大正13年度 94 189 189 472
昭和4年度 350 349 349 1048
昭和5年度 341 341 341 1023
昭和6年度 347 347 347 1041
昭和7年度 345 345 345 1035
昭和8年度 351 351 351 1052
昭和9年度 351 353 353 1057
昭和10年度 368 366 366 1100
昭和11年度 364 362 362 1088

1、昭和3年普通選挙が制定せられたので昭和4年度より一躍有権者数は2倍乃至4倍に達した。
2、この法に於いては、県会と村会とは条件同じく衆議院は定住の条件が短き故有権者に於いて衆議院のみ多少異なるのである。
3、衆議院議員選挙有権者と、県、村会有権者との数の接近しているのは、本村人口の移動少なきを示すものである。



第十七章 警 察

 平和に暮らしていた以西村には警察方面に関する事柄は古記録も無く、また古老の言にも伝わっていない。藩政時代ただ船上山の祭日、その他年に2回位、山奉行と称する者が村内を巡視していた事は古老の言にある。山奉行は山ばかりでなく、あらゆるものの取締りにあたっていたらしく、倉を2棟も建つる者があれば奢侈であると言って、止めたと言う事である。山奉行を見ると皆恐れたという。
 取締りとしては切支丹の取締りが最も厳しく、年に1回くらい判形といって、10歳以上の男女を野原に集め、奉行、手先、庄屋等、立会のもとに姓名の下に一々血判を捺させ、切支丹信者にあらざる起請文をさした事が伝え残されている。
 明治26年頃、以西村に巡査駐在所が設置され、高岡なる川上清太郎氏宅の一部を之にあてた。初代駐在巡査は本村正信氏で、明治26年2月9日任命されたことが記録にある。(成美駐在所雑賀氏の調査)然るに駐在所の建物が世の進歩につれ狭隘を感ずるようになったので大正11年11月24日、時の村長中井猶蔵氏、駐在巡査鳥飼氏の尽力により、現在の学校前に移転改築されたのである。それ以後の歴代駐在巡査は次の如くである。
 鳥飼巡査、建井巡査、大場巡査、中村巡査、西田巡査、雑賀巡査



第十八章 消 防

 藩政及び明治の中頃までの消防事業は不明であるが、恐らく取り立てて記する程の事も無かったであろう。
 以西村に初めて消防組らしきものの出来たのは、明治35年竹内に大火があったので、大熊部落が火災予防のためポンプを購入し、同年高力虎蔵氏を組頭として組織したのが始めであるそうである。それより段々と私設の消防組が出来てきたものと思われる。次に消防組織設置年月日ポンプ(消防用)購入年月日及び当時の組織を示そう。

部 落 消防組設置年月日 ポンプ購入年月日 組   頭
竹  内 明治35年 明治35年 別に最初組頭なく中途石賀辰蔵氏組頭となる
金  屋 昭和9年3月 昭和9年3月 牧田純太郎
大  熊 明治35年 明治35年 高力虎蔵
山  川 大正11年5月 大正14年4月 那須藤蔵
大  父 大正6年4月 大正6年6月 河上惣次郎
山川木地 大正11年4月 大正11年4月 小椋新一

 以上の如く、全村各部落に消防組の設置せられたるは、慶賀すべき事であるが、私設なるため統一をかくきらいあり。歴代駐在巡査もこれを残念に思い、公設消防組設置に尽力したるも時機の至らなかったためか素志をとげる事が出来なかった。
 然るに昭和10年に至り時の中井村長、駐在西田巡査、大熊の高力友光氏等の尽力により、初めて公設消防団が設置された。
 昭和10年春4月、公設以西消防組の結成式を以西小学校講堂に於いて挙行、高力友光氏推されて初代組頭となる。
 当時は唯大熊一部なるが故に貧弱であったがその後、小倉村長、駐在巡査の努力により金屋に第二部が昭和11年5月17日設置され、さらに現川上村長、駐在巡査、高力組頭の奔走によって、同年7月20日、三、四、五、六、七の五部が増設され以西村の大部分を統一した公設消防組が出来た。公設消防組役員氏名及び消防手数は次の表の通りである。

組  頭 部  名 部  長 小  頭 消防手数
高力友光 一部(大熊) 高力寿雄 高力幸松 30
二部(金屋) 谷本英太郎 入江庄治 23
三部(竹内) 中井志郎 中井正巳 26
四部(山川) 那須藤蔵 那須健一 28
五部(国実) 川上重徳 岩本恒雄 23
六部(宮木) 入江実蔵 西永源蔵 21
七部(大父) 河上清光 橋田隆治 30




第十九章 財 政

 大正元年に次ぐに大正7年の水災において異常の打撃を受けた本村は苦闘十年余り、旧に復して邁進の域に達せる折柄、昭和8年またも水害に遭い、其の為に大熊架橋費として1,355円を投じ、翌9年、神の試練か再び大風水害に遭遇し、その損害きわめて甚大なるものありて、財政上大影響を及ぼせり。
 次に損害額を挙げれば
   総被害額----------101,896円
   一戸平均被害額----    414円(戸数246戸)
   一人平均被害額----     63円(人口1,619人)
   堤防護岸復旧工事-- 18,032円
 続いて昭和10年度雪害に於いては
   麦減収--------‐‐‐  1,991円
   繭減収‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 12,157円
 近時に於ける主なる変動としては以上の如きものにして村民の打撃また言うべきである。
 次に現在財政状態は
   村一般財政‐‐‐‐‐‐‐  15,836円(経常部予算額)
   村税特別税戸数割‐‐  5,628円(一戸当 23円066)
   特別会計土木復旧費  7,086円
   同   被災援助資金    227円
  世の荒波は浸潤し多種の事業は次々迫り経費支出の度は次々に加わり、天災地変に加うるに多大の負債は余儀なくされ為に村経済は逼迫の状態にあり。
  ここに於いて目下経費の整理節減を計り、産業増進に努め、且つ又経済更生指定村として、更生の意気を示しつつあり。
 次には村有財産及び税額、収支、年次表を示さん。
    建 物‐‐‐‐‐‐404.6坪
    土 地‐‐‐‐‐‐373町7反5畝3分(山林 跡地)
    現 金‐‐‐‐‐‐434円96銭6厘

  税金年次表(単位:円)
年 度 国 税 県 税 村 税
大正3年 2,895 2,161 2,532
大正4年 3,351 2,191 2,825
大正5年 2,959 2,090 2,748
大正6年 2,843 1,987 3,226
大正7年 2,910 2,020 2,984
大正8年 3,176 2,685 3,669
大正9年 3,477 3,854 7,247
大正10年 3,883 4,325 11,521
大正11年 4,132 4,648 12,651
大正12年 3,956 4,329 7,701
大正13年 3,887 5,572 11,669
大正14年 3,351 2,191 2,825
大正15年 4,197 5,701 8,774
昭和2年 3,877 5,652 9,986
昭和3年 3,160 5,629 10,144
昭和4年 3,151 5,457 10,527
昭和5年 3,255 5,785 10,500
昭和6年 2,369 5,370 8,322
昭和7年 2,177 5,476 7,633
昭和8年 2,349 5,244 7,827
昭和9年 2,268 5,404 8,165
昭和10年 2,204 5,096 8,244
  村費収支表(単位:円)
年 度 収 入 支 出
明治44年 3,124 2,991
明治45年 2,868 2,522
大正2年 2,868 2,701
大正3年 3,329 3,059
大正4年 3,329 3,251
大正5年 3,226 3,156
大正6年 5,627 5,616
大正7年 5,152 5,128
大正8年 9,682 (繰越)9,728
大正9年 20,174 18,746
大正10年 11,521 11,521
大正11年 27,546 25,606
大正12年 16,636 16,405
大正13年 26,591 26,342
大正14年 13,418 12,632
大正15年 14,991 13,904
昭和2年 14,836 13,704
昭和3年 17,595 15,257
昭和4年 20,357 19,970
昭和5年 19,024 19,024
昭和6年 18,535 17,706
昭和7年 17,257 15,553
昭和8年 22,244 21,358
昭和9年 20,174 18,746
昭和10年 18,205 16,196
  賃貸価格調(昭和11年現在)
部落\円数 一万円以上 五千円以上 千円以上 五百円以上 二百円以上 二百円以下
竹 内 - - 省略 -
宮 木 - - - - - 省略 -
高 岡 - 14 省略 -
大 父 - - 省略 -
山 川 - - - 省略 -
- 10 11 29 89 143

経済更生委員会
 本村は昭和8年2月17日経済更生村として指定された。依而昭和8年2月17日、厚生委員会を設立さる。
  委員総数22名
 川上雄美  小椋重朗  松岡貞信  川上久治  井上禅之  高力政四郎  米田傳市
 河上清光  河上惣次郎  小椋新一  高力米蔵  御崎芳蔵  田中乙松  谷口辰吉
 村上啓吉  川上武治  川上福光  牧田純太郎  中井貞造
 ― 役 員 ―
  会長 村長   副会長 小学校長   幹事書記 森田書記
 委員会の主なる事業
一、土地利用合理化  一、農村金融改善  一、労力利用合理化  一、農業経営の合理化
一、農業用品配給統制  一、生活費軽減  一、教育衛生改善  一、生産改良



第二十章 出身人物・被表彰者

第一節 出身人物

一、村上猪柳氏
 氏は明治15年1月1日、大字竹内に出生。性質温順、緻密、清元院校舎の以西尋常小学校に学ばれ後八橋高等小学校を卒業後一年間農業に従事。身体を養いたる後、松江修道間を卒業。山口高等学校に入りしが廃校となり鹿児島第七高に転学、困難を昌して卒業。京都帝大醫科を卒業の後、軍隊委託生となり中尉に任官、後今澤、善通寺、小倉、大村、羅南、濟南、旭川、鳥取、廣島、仙台、金沢、満州に衛戍病院長として歴任、26年間の軍隊生活を終え軍醫監(少尉相当官)勲三等正五位に叙せらる。現在大阪市赤十字病院に在任。本村第一の努力成功家なり。

二、池山 学氏
 大字山川に生まれ以西小学校を卒業。現在愛媛県松山市において生命保険業に従事せらる。

三、中本義雄氏
 北海道にて生る。東京高等工業学校卒業。東京芝区西芝浦四の三、塩水港製糖東京工場に勤務。工場長として敏腕を振るう。

四、山根安太郎氏
 国実村に生れ以西小学校高等科一年終了後、役場書記より工科学校に入り出でて鳥取師範二部生となり上中山校に勤務。一年にして廣島高師卒業後、現在廣島高師付属中学国語教師なり。

五、来家末吉氏
 大字竹内に生れ、昭和11年文部省美術展覧会に彫塑少女像を出品し見事入選の榮を檐う。

六、山根百三氏
 明治43年5月18日、宮木に生る。山根淺吉三男。大正14年3月以西校高等科卒業。昭和3年3月以西補習学校卒業。現在佐伯航空隊運用科内火艇長海軍二等兵曹たり。

七、西田安太郎氏
 金屋に生る。海軍一等兵曹になり勲七等に叙せらる。


第二節 被表彰者

一、天良文三郎
 以西村池田家に仕えし忠僕。46年間主家に尽すの廉により明治45年1月、鳥取県知事より表彰さる。

二、高力幸吉
 大字高岡村、大正5年11月20日、東伯郡精農者表彰に際し郡より表彰を受く。

三、橋田次太郎氏
 明治5年6月7日、大字大父に生れ、明治21年3月より大正15年3月まで以西小学校大父分教場に勤務し、長年の間、子弟教育につとめし廉にて村より分教場校庭に頌徳碑を建設さる。

四、浦邊ちか
 大字宮木、節婦の廉によりキング賞により表彰さる。


 以西村郷土誌 


昭和十一年十二月印刷

     編纂者 以西小學校同人

         松岡 貞信
         足立 才蔵
         谷口 武雄
         米田 鎮美
         山口 功徳
         前田 長蔵
         安井 剛
         小玉 操
         牧田 喜枝
         市川 美代代
         佐々木 文子